熊野大学ノート1

というわけで、昨年*1と同様に、熊野のセミナーでメモしたことをブログに書き起こしてみます。まずはじめは一番内容が軽くて、それでいて深くて、それでいて楽しかった、いとうせいこうさんと奥泉光さんとのご対談の件です。
もちろん、例によって、これはあくまでも一個人の旅の思い出としての「ノート」であって、ノートに書き切れなかったことは大胆に端折っているし、つながりがわからない箇所は妄想でつぎはぎしています。
しかし、もしかしたら、この対談ですが、半年くらいしてから「すばる」あたりに、きちんと音声起こししたものが、掲載されるかもしれません。そのときはそのときです。自分がノートに走り書きしたものと、録音から忠実に起こしたものとが、どれほどかけ離れてしまっているか、それを読み、楽しむのもまた楽しみです。
というわけで、起こした本文は、以下のとおりです。
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・対談「十九歳の地図を読み解く」
 日時:8月7日18時半〜
 I=いとうせいこうさん
 O=奥泉光さん
<「まみれて」読むこと>
I:熊野には、もう22年×6時間くらい来てますね。海遊びに来ています。それと(中上の)お墓参りも欠かせません。そういえば、渡辺直巳さんが中上さんのお墓にせっかちに水をかけている写真が、写っていなかったり、あと、青山真治さんが「南回帰船」の原稿をもとに映像作品を制作していたところ、どういうわけか中上健次が撮った路地の映像が消えてしまってたこととかがあります。
O:そういう不思議なモードが、(この熊野には)みなぎっていますね。だから読書はしなくてもいいと思います。というか、この風土に「まみれて」いればいいです。水と光にまみれるのが、良いと思います。
I:いきなり本題に入りましたね。
O:読んでないときも、思い返すときも含めて、断続的なところで、読んでいるのです。海で遊んでいて、魚を追っているときだって、読んでいることになるんです。
I:それって詭弁じゃないですか。
O:「枯木灘」という物語を感じている時間とは、つまり「海」です。だから、無理して「読まなくても」いいと思います。もう、この会場に来ているという時点で、すでに「読んでいる」のですから。というわけで、海で、中上を読んでました。
I:たしか魚を突きまくってましたね。魚を突くときは、まず殺気を消すことが大事ですね。殺気を消したまま、魚を突き刺します。
O:海では暑くて熱中症にもなってしまいましたね。あと、最初の日は、二日酔いもしてたこともあって、中上の作品をまったく読めてないですね。だいたい毎年夏には、中上を読んでいるのですが、・・・やはり「まみれる」という形で読んで行くものですね。
I:五感でわかりなさい、ということですね。
O:その成果として、今回、「十九歳の地図」について語ります。
<「十九歳の地図」と「枯木灘」主義と>
I:はじめは、中上といえば、秋幸三部作や「異族」を読んでいましたね。そのうち、たしか大学生の時、「十九歳の地図」を読みました。そのときは、なにか暴力的な、ヤバいものがあると思いましたね。
O:僕は、やはり、「枯木灘」や「岬」が好きですね。たとえ「十九歳の地図」を読むとしても、どうしてもそこに「枯木灘」を探ってしまいますね。夏芙蓉はでてこないんだですね。
I:「十九歳の地図」は、1973年発表ですね。その大前提として、大江健三郎が「セブンティーン」を書いたりして、それが天皇のオナニー小説ということで発禁になりましたね。そのせいか、過激なことが発表しづらい時代でもありました。そのときに、「十九歳の地図」がでてきたということで、僕の中で記憶がリンクしています。怖いイメージがありました。
O:ここで「十九歳の地図」のテキストを読んでみますね。「・・・部屋の中は、極度に寒かった」・・・寒いんです、冬なのですね。夏ではないんだ。枯木灘主義者としては、夏芙蓉がでてこないことが気になります。そういう意味では、「十九歳の地図」は孤立した作品のように思いますね。
I:たとえば、大江健三郎にとって「芽むしり仔撃ち」は、後から考えると、そこに戻ることはできない作品ですね。中上にとっても、「十九歳の地図」は二度と戻り得ない作品なのかなと思います。
O:主人公は、新聞配達のバイトですね。場所は東京かも。新聞配達をしながら、予備校に通っています。もはや一切の希望も抱いていない雰囲気です。そして地図に載っている家々に××という印をつけて、脅迫電話をかけていく。そういう妄想の中で、世界を壊していく、そういう少年を描いた、作品ですね。
I:ナンバーディスプレイが無かった時代の話ですね。
O:そうですね。そして、脅迫電話をかけると、「かさぶただらけのマリア」の声しか聞こえてこないです。
I:そういう一方的なところが、ある意味、ネットを使った嫌がらせに似ていますね。この不穏な感じが、とても似ています。
O:あと、気になる箇所は「少年は、いつも誰かにみられて、笑われている感じ」とあるところです。いつも誰かに見られているこの感じが、「枯木灘」主義者としては、秋幸のように見えてきてならないのです。誰かが見ているというこの感じが、秋幸の世界にもたくさんあるのです。小説の主人公は、読者に必ず見られているのです。
I:主人公が、ちょっとでも奇異な格好をしていたりするのは、やはり、見てもらいたいと思うからですよね。
・・・ところで、これは、もしかしたら「童貞小説」ではないでしょうか。
O:でましたね、(Iさんは)童貞小説の評論家もあります。そうですよね、中上さんは童貞小説を書いていたのですよね。
I:「十九歳の地図」に関しては、そういうところがあるように思います。
<見られることと物語の解放と>
O:近代小説の特徴とは、主人公が見られないフリをしているところにあります。これがもし古い物語の場合は、見られるという前提が強いのですが。
中上の作品の場合は、見られていることが自明です。そこから物語のパワーを解放するところに、文学の正統性があります。彼の小説の主人公は絶えず見られていることを気にしています。
I:つまり、語られていることを前面に出してしまうのですね。そして俺が書いているんだ、ということすら自覚していますね。
O:「枯木灘」は、物語の世界を解放していますね。そうすることで、秋幸のこともキャラクター化してしまいます。秋幸は土方仕事をしていて、そしてその土方仕事をしているシーンは、美しいですね。
I:どういうときに見られているかですね。たとえば秋幸は、浜村龍造を、はじめは見ようとしないけど、見られるのがイヤだから、こちらから見るようになります。
O:枯木灘の3年後の「地の果て至上の時」ですが、あれははじめの10ページが好きですね。まさに近代小説です。
I:あの作品の最初の10行について、わたしが「解説」を書いたことがあります。何物でもないその10行の存在がぶるぶるふるえているような感じがします。あれがものすごいメタフィクションになっていると思います。
あと、浜村龍造が首をつって死ぬシーンがありますね。その直前に彼はなにか本を読んでいるんだ。しかし、死後、そのポケットの中をみると、本が無くなっているんです。
O:話を戻すと、「見る」「見られる」の崩壊が、この「十九歳の地図」にはありますね。近代小説の主人公としての、中上なりの課題がここにあります。
I:見る、ということは、社会的な身分関係で解釈できることではなくて、小説を書くことに秘密があるのでしょうか。
<少年の身体性>
O:新聞配達の少年の世界は、実に暗いですね。本文を読んでみると、「給料もらって食っていくなんてまっぴら、虫酸が走る」と大人の偽善をディスってる。若い中上のディスりのパワーが炸裂していますね。そして主人公は、暗く、希望は見えてこない。
・・・しかし、そんな奴なのに、「自転車を使わずに新聞配達」したり「荒い道を走る自分が好き」だったり、そのほか、細かな工夫を積み重ねている様子がある。そういう働いているシーンには「肯定性」があるのです。
I:それはまさに秋幸の構図ですね。
O:好きでやっている仕事ではないのですが。
I:単純な労働ではありますね。
O:ここに主人公の「身体性」が現れていますね。新聞を配るシーンを読んでいると「朝のこごえきった空気」に「黄金比」を見いだし、100mの全力疾走をしています。とても絶望している少年とは思えません。
I:そういえば、一人称は「僕」ですね。脅迫電話をするシーンも「僕」です。「俺」ではないんですね。
O:そうですね。だから「右翼」という言葉ですら、なにかとってつけたような感がありますね。
I:いまでいうネトウヨみたいなものかも。
O:身体からはあふれるほどの「肯定性」があるのですよ。
I:「地下生活者の手記」とは違うんですね。たいへん基礎体力のある主人公ですよ。
O:あと、ミドリ荘で小便をするシーンなんか、空が群青色に変わっていくシーンが描かれているのですよ。そして朝の冷え冷えとした空気と身体の温もりがつりあう「黄金比」、ここでも黄金比。なんか、いたずら電話をする少年とは思えないですね。
I:「物理の法則にのっとって、地図を塗り重ねる」これなんか後の浜村龍造にも似ているように思います。中上は、この作品を27歳で書いたわけですが、その19年後に中上は亡くなってしまいます。その地図をすでに書いていますね。
O:観念と妄想に生きている少年だけど、それを越えるような身体性があるのが不思議です。イメージが正反対ですよ。
I:この作品は、比喩がところどころスカしているところがありますね。ただ、自然を描写するシーンは比喩がハマっていますね。
O:そうそう、主人公を暗く設定しながら、世界を肯定する力がすごいんだ。東京で、ふるさとから切り離された生活をしているけど、しかし少年は「黄金比」「朝の光」といったことばで世界を肯定しているんです。
それと、列車を破壊するという脅迫をするシーンがありますね。玄海号を爆破予告するシーンですが、18時にS駅に着くという設定ですが、よく読んでいると「O(尾鷲駅)→K(熊野駅)→S(新宮駅)」と、イニシャルで新宮であることをヒント程度に示していますね。
I:中上は、どうしてこの「十九歳の地図」の世界に、以降、戻り得なかったのだろうか? 「異族」や「讃歌」のように、秋幸でない作品群はありますが。
<新人の特権性>
O:そういえば、新人であることの特権性について、中上さんが強調していたことを思い出しました。すでに自分は「旧人」になってしまったが、改めて新人として書きたいと思うときもある。「十九歳の地図」は新人の小説である、と言ってました。
I:「異族」では、右翼の世界を扱っていたりするので、もしかしたら晩年に新人に戻って、作品を書こうとしてたのかもと思います。
O:ただ、新人であることは結局断念せざるを得ないわけで。
I:ところで、海で魚をつくヤスには、「返し」がありますね。だから魚に刺さると抜けません。抜こうとしたら魚がボロボロになります。「十九歳の地図」にはそれ(非可逆性)を感じます。これは大江健三郎が「個人的な体験」を書いたことにも似ています。
中上にとっては、柄谷行人さんからフォークナーを教わったことがもしかしたらヤスの「返し」だったのではなかろうかと思います。
O:そうですよね。小さなカサゴに刺さってる程度ならよかったのに、中上の場合は、よりによってクエに刺さってしまった。それが物語を解放する原動力になったのでしょうね。
I:かさぶただらけのマリアに電話をするシーンがありますね。電話をかけたのはいいけど、なぜかマリア様に一方的に優しくされてしまいますね。
O:このマリア様はよくわからない人なのですが、「死にたいけど、ゆるしてくれないよのお」と言ってますね。これは、「異族」にもでてくる語尾ですね。この言葉を受けて、なぜか主人公は泣き崩れてしまいます。なにが起きたのか? よくわからない少年ですね。これは黄金比の涙だろうか、それともサラサラの涙なのだろうか?
I:一方的に優しくされてしまう電話に、思わず、感じいってしまったのでしょうね。脅迫電話して怖がられるつもりが、ちょっと違った感じの結果になってしまって。
O:僕は、少年が元来もっていた「肯定性」がここで出てきたのだと思います。本文にはメッセージ性はないけど、もともと少年がもっていた、世界と一体化する能力が出てきたのではないでしょうか。
I:というわけで、これから焼き肉屋に行きます。
O:みなさんにも「まみれる」ように読んでほしいと思います。
I&O:ありがとうございました。
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