熊野大学ノート3

熊野大学セミナー2日目の中田さんの講演のメモを起こしてみました。ただ、このノートは、あまり緻密にとれたとはいえず、こうしてテキスト起こししてみたところ、戦時中の証言をただ羅列したような感じになってしまいました。
それでも、銀河で特攻にでて(中止になって戻ってきた)倉本さんの証言「特攻は命令だった」という箇所についてメモできたのは、よかったなと思います。
またこの講演は、パソコンとプロジェクタにより、画像をふまえてお話されたものなので、そもそもテキストとして記録するのが難しいものもあります。
そういう風にいろいろまとめられない理屈を並べてしまいましたが、ともかくその場でメモった記録は、以下のとおりです。せめてものリマインダーとしてアップします。
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日時:8月7日(土)12時〜
講師:中田重顕さん
<熊野と中上健次について>
昨年も熊野大学に呼んでもらいました。昨年は台風がすごかったですね。昨年も来られた方には話が重複することもあるかもしれませんが、まず、熊野についてお話申し上げます。わたしは下手な小説を書くために熊野をあちこち取材しておりますが、そうして書きあげた「みくまの便り」がありがたいことにツタヤで売り上げ1位に輝いたこともありました。
さて、熊野という地域ですが、これは紀伊、田辺〜大紀あたりまでのことを指します。和歌山県だけではなく、三重県側にもひろがっています。
この熊野のうち、新鹿というところは、文学と津波と縁の深い土地です。1944年に東南海地震により、この地域は大きな被害を受けました。そしてその新鹿に中上健次は、一時期、借家を借りて住んでいました。そして、近くの二木島というところで、1980年1月31日に猟奇事件が発生しました。家族の7人を殺害し、加害者自身も自殺をしてしまった。この事件については、中上健次も「桜川」で取り扱っています。
<富国強兵の時代>
さて、戦後70年という節目な年ですが、まず、わたしは昭和17年生まれであり、戦後の節々と関わって生きてきたので、いっそう感慨深いものがあります。日本は、明治維新を経て近代化しました。それから1945年までの約70年間走り続けました。1894年に日清戦争で、日本が近代軍隊を完成し、中国を負かしました。ここから中国を軽侮風潮も生まれました。そして1904年に日露戦争で勝利を収めますが、この日露戦争も結局は、中国における利権をめぐるものでした。日露戦争のときは、世界中から観戦武官もこられて、日本兵の勇敢さにみんな驚いたといわれています。
そうはいっても、実際の戦争は、劣悪な環境で、病に倒れる兵士も多く、無理に無理をしいた戦争でもありました。国内の農村にも無理を強いていました。第二次大戦中に造った戦艦大和建造にかかった経費は、東海道新幹線が3路線分敷けるくらいの経費だったといわれています。
<戦時下の熊野>
さて、熊野市飛鳥町小阪にも、富国強兵政策の時代の痕跡がありました。森岡みきのさんの証言に取材したものですが、戦前は、頭に板を乗せて八丁坂を越えて、新鹿まで峠道を伝って働きにでていました。過酷な労働を強いられ、福祉や民生というものがまったくなかったのが、戦時の農村でした。1931年の満州事変、1937年の支那事変、1941年の太平洋戦争に至るまでこの時代は続きました。学校では軍事教練が実施され、産めよ増やせよが奨励されます、人権意識がまったく無い時代です。息子が戦死したら、母は葬儀のとき「名誉の戦死おめでとうございます」と周りに感謝して回るのが、あたりまえでした。
<中国戦線>
戦争には「加害」と「被害」とがありますが、日本は「加害」者という側面もあります。とくに中国と朝鮮半島においてそうでした。中国の柳条湖には「9・18記念館」というのがあります。これは中国が満州事変のことを忘れないように、という気持ちを込めて建てたものです。
満州事変は、1937年で、蘆溝橋事件から中国との全面戦争が始まりました。いまでもこれが侵略行為なのかどうかは議論の対象になってはいますが、ともかく日本軍は、中国の街を焼き、破壊したことは間違いありません。
1937年には、南京も占領します。これがいわゆる南京事件です。中国側では30万人殺されたとも言ってますが、日本側では2万人殺した、などと数字が食い違っていたり、また事件そのものがそもそもあったのかどうかもいまだに議論されています。
<熊野びとと戦争>
清水太郎氏(大正5年〜平成3年)という詩人がいました。戦時中は、中国で従軍してました。この人は中上健次とも関わりがあり、「木の国根の国物語」の本文中にもでてきます。この人は詩人だけあって、中国で見たことを生々しく書き残してくれています。非戦闘員が村の中央から放射線状に散らばって倒れて死んでいた様子とかを、書き残しています。また、やはり詩人だけあって、中国人を見る目も違います。相手が中国人でも決して軽侮することなく、中国人には立派な人が多いと肌で実感していておられるし、また、身近な苦力が大怪我をしたときは、丁寧に見舞いにいったりもしたそうです。
この中国での従軍経験をもとに「破片」という詩集も発表しています。昭和50年4月にガリ版刷りで100部復刻されました。非常に良い詩です。「途(みち)」「娼婦」をここで朗読しますが、立派な戦争文学だと思います。
沖縄戦線>
沖縄では、非戦闘員が50万人戦死しました。沖縄決戦というのは、本土決戦の準備段階のものとして、位置づけられ、このため本土からは支援を受けることができず、ほぼ見放された形になりました。すでに日米の国力の差は10対1の割になっており、すでに神風特攻も始まっていました。
<倉本氏と証言を聞く会>
倉本さんとは、平成26年3月22日「証言を聞く会」という場を設けて、わたしが質問役になり、神風特攻について、お話を聞かせていただいたことがあります。実に、68年の沈黙を破って、お話をしていただきました。
倉本さんは熊野市紀和町ご出身の方で、大正14年10月22日のお生まれで、昭和17年、土浦の予科連で乙種練習生になりました。そして昭和20年5月7日に「銀河」に乗って出撃しました。800キロの爆弾を積んで離陸しました。
わたしは倉本さんに「特攻は志願制でしたか?」と質問してみました。
倉本さんの答えは「命令でした」
これはたいへん重要な証言だと思います。

倉本さんは「銀河」に乗って、特攻目的地のウルシーまであと3時間というところまできましたが、ここで飛行機が積乱雲に巻き込まれてしまい、帰投せざるを得なくなりました。
それでこうして倉本さんの証言がいま聞けたわけです。・・・
(この後、戦艦大和水上特攻で唯一生き残った坪井平次さん、沖縄第32軍所属の三重県出身の方のお話をされて、戦時中の証言をまとめてましたが、ノートはあまりとれておらず、ここに書きおこせない状況です。なので、ここでブログ上の記録は、おわりとします。)
・・・ご静聴ありがとうございました。