事故当日のこと

○3月15日 深夜
早朝1時から岡崎の自宅を自動車で出発して、中央自動車道経由で、一路志賀高原横手山渋峠スキー場に向かう。6時頃にはゲレンデふもとの駐車場に到着。9時頃のリフト運行開始時刻まで車内で仮眠して待つ。運行開始時刻とともにリフトを上り、日本一標高の高い(2307m)渋峠スキー場へ直行する。
午前中の渋峠スキー場は天界そのもの。ひろびろと見下ろす真っ白い雲海が美しい。また、3月半ばとは思えないさらさらの雪質も満喫。気分上々、13時頃までリフトを繰り返し上り下りしてライディングを楽しむ。
○3月15日 14時
いいかげん身体も疲れてきたし、昼飯もまだだったので、どれ、この辺でおなかを満たそうということで、レストハウスに入り、焼き肉定食をいただく。おなかもいい感じになり、元気が出てきたので、最後にもう一回シーズン〆のライディングをしたくなり、またリフトに上って渋峠に向かう。
この日に限って、リフト管理のおじさんが声をかけてくる。「またのぼるんですね」。いつもは黙って見送るだけの人が、なぜか声をかけてくる。理由はわからないが、なぜか気になった。気にするほどでもないことなのに、気になった、なんで覚えていたのだろう。ウェアやヘルメットがそんなに特徴が強かったのかな。その程度のことだろう。そんなことに気を取られながら、渋峠のスロープをショートターンを繰り返して軽くかっ飛ばしていたら、いきなり逆エッジでふっとばされ、たちまち空中をぐるんぐるん3回転した。頭も背中も打たなかったが、左足から着地したみたい。気がついたときにはスロープの上に大の字になってへたばっていた。左足に強烈な激痛走る。「あ!やってしまった」その瞬間から、骨折であることを悟った。激痛と動かない左足。夢であるならばさめてほしい、いや、夢ではない、なんとかしてレスキューを呼ばなくては。まず周りを見回す。スキーヤーたちは、こちらのピンチには気がつかず、いつも通り楽しくすべりおりてゆく。これは何か叫ばなくては誰も気がつかないパターンだ。ついに意をけっして叫ぶ「すみません!足の骨を折ったかもしれません。レスキューを呼んでください」
それから15分くらい待たされただろうか。1台のスノーモービルが幌付きのそりを引っ張って下からゆっくりと上ってきた。・・・これでようやく助かる。
「左足に感覚がないんです」
「まずスノーボードをはずしていきますね」
左足のビンディングをゆるめ始める。
「痛!!!!」
「ゆっくりはずしていきますね」
ゆっくりはずしても痛いものは痛い。痛みを我慢しながらの作業に耐える。ビンディングようやくはずれる。
「こちらのソリに移ってください」
まだ足にはブーツがはまっているが、そのままソリのなかに身体を滑り込ませる。なんとか五体が収まった。ファスナーが閉めおろされると、周りの様子は見えなくなる。
スノーモービルのエンジン音が鳴り響く。自分を乗せたソリがゆっくり牽引され、ゲレンデの迂回路を少しずつたどって降りてゆく。ただ、あちこちに段差があり、乗り上げるたびにソリ全体にガクンと激震が走る。そのたびに左足の患部がうずく。この痛さといったら! あまりにも痛すぎて叫ぶほかない。
「うぎゃああああ!」
「がんばってください」
「おお!頑張れ自分! うぎゃああ!」
段差でがくんと揺さぶられるたびに、左足は地獄の苦しみ。しかも渋峠スキー場は奥地だから、診療所までの距離がハンパない。20分くらいかかったのではなかろうか。よくも耐えられたものだと思う。
ようやく横手山診療所に到着。担架に運ばれて、診療所のベッドにのせられた。
しかし、屋根のある空間(診療所)に到着したということで、内心ホッとした。おそかれ早かれこれで自分は助かるんだな、と言う気持ちになる。
「ブーツをはずしましょう」
そのとおりです。ブーツをはずさなくては患部を見ることができない。しかし、スノーボードのブーツというものは堅固で、左足をぴったりタイトに包んでいる。これをはずすということは、また痛みに耐えなくてはならないということ。ひもをゆるめにゆるめて、アウターとインナーの順に取り外してゆく。患部がゆすぶられるたびにまた痛む。痛い、痛すぎる。10分くらい格闘したと思う。
「おそらくこの辺が折れてますね」
診療所のレスキューご担当、おもむろに左足関節より少し上の箇所を、指でつんと押す。たちまち激痛走る。
「痛!!!」
「すみません。ただ、こうして左足かかとをちょっと持ち上げてみると、足首がすでにぐらぐらしてて不安定です。おそらく2本(脛骨、ヒ骨)とも折れてしまってます。たぶん手術になりますね。ただ、開放骨折ではないので、緊急手術の必要はありません。包帯巻いて固定しますので、このまま岡崎に戻って地元の病院で診断を受けてください」
「え? 自分で運転して岡崎にですか?」
「そうですね。安全上、リスクは高いのですが、緊急手術の必要がない場合、お住まいの病院で診断を受けた方が、後々いいと思います」
そう言われてしまえば、その通りだし、骨折したのは左足だ。右足が元気であればAT車を運転するのは不自由しない。それに包帯と添え木で左足をがちがちに固定してもらったところ、痛みはたちまち消えてしまった。これなら運転して帰れそうだ。
それで意を決して自力で岡崎へ帰ることにした。診療所から借りた松葉杖をつきつき、自動車に乗り込み、自力運転で志賀高原の坂道を降りていった。
○3月15日 16時
志賀高原から、ふもとの中野市に至るまで、下り坂はうねうねしている。運転はたいへんスリリング。30分くらいかけてふもとまで降りた。あとは高速道路に乗ってしまえば、運転はそれほど苦労する要素はない。
そのまえに、ローソンの駐車場でひとまず車を止めて、オフィスに第一報を入れる。
「緊急事態です」
「なにかあったのですか」
「わたしに関する緊急事態です」
「どうぞお話ください」
志賀高原でのいきさつを説明。「これから自分で運転して岡崎に戻るから」と言うと
「地元の病院で診てもらわなくていいんですか」
と訊いてくる。
テーピングでがちがちに固めているから大丈夫、と説明して、電話を切る。ふたたび運転を始める。
高速道路に入り、中野市松本市岡谷市伊那市恵那市豊田市、そして岡崎市へむけて休みもせずにどんどん南下してゆく。
これだけの距離を休みもせずに、一気に運転し続けたのもすごいと思う。おそらく骨折の件で、興奮状態だったからだろうと思います。
○3月15日 21時
岡崎市民病院到着。事前に緊急外来に予約を入れておいたおかげで、スムーズに待合室に案内してもらう。
22時頃、ようやく診察。まずレントゲン撮影。がちがちにまいてもらった包帯をほどく。
その瞬間、患部がふたたび不安定な状態に戻ってしまった。悪夢のような痛みがまた始まる。とにかく痛いし、激しい痛みが延々と続く。額からは脂汗が流れてくる。このとき、最高血圧164。
○3月15日 22時
診断受ける。緊急外来担当だから、整形の専門とは限らないわけだが、ともかく、レントゲン写真を見て言う。
「ずいぶんひどく骨折しましたね。脛骨を粉砕骨折しています。またヒ骨も折れていますね」
レントゲン写真をみて、自分でもびっくり、脛骨が細かく砕けていて、こんなのいったいどうしたら元に戻るのだろうとにわかに心配になった。
「明日、整形外科に予約を入れておきますので、また診断を受けてください」
患部にまた包帯を巻き直して、自宅にいったん引き揚げることになった。0時過ぎにようやく自宅到着。痛みの治まらない左足のおかげでまるで眠れない。
ラジオを鳴らして気を紛らすほかなかった。