都内でのこと(安吾研メモ)

日時:2015年3月7日13:00、場所:早稲田大学講堂にて開催された坂口安吾研究会の発表会に立ち寄ってきました。おそくなりましたが、当日のメモ起こしをしましたので、以下のとおり自分なりにログ付けしておきます。
まずプログラム前半2時間の、研究会としての発表は、岸本さんによる「木枯の酒倉から」、山路さんによる「村のひと騒ぎ」といった、初期ファルスについての研究発表でした。
「木枯の酒倉から」の発表についてですが、自分なりに要約すると、作中にでてくる「狂人」と「行者」との不可思議な対立について、安吾さんが当時ハマっておられたフランス音楽の作曲家、ドビュッシーとサティとの対立に見立てて論ぜられるものでした。
ちょっと不思議な見立てではありましたが、ドビュッシーが霧のような独特の和声音楽の確立したこと。サティが和声を眼中に置かずに、変わった音楽を作り続けたこと。この対立が、たしかに、「狂人」と「行者」との対立に通じるような気もしてきました。
「木枯の酒倉から」ぱっと読んで率直に申し上げて、わけがわからない短篇ですが、こうして安吾が身をおいた時代と、そこで文学仲間にもまれながら引き寄せた知識と情報。そしてそれらと関連付けて考えると、作中ひとつひとつのことばに根拠がしっかり与えられてくるように思います。見立てはあながち嘘とも言えまいと思います。
また、作中に「前奏曲」「交響楽」「パゴタ」「英雄」といったクラシック音楽のキーワードが含まれていることも、むべなるかなと思います。

「村のひと騒ぎ」の発表についても自分なりに要約すると、当時のプロレタリア文学や農民文学が示していた、理念的な解決図式に対する巧妙な皮肉としての安吾文学の姿を再評価しようとしたものでした。農村の人間を、ファルスの手法で相対化して描き出すことで、理念では割りきれない人間の姿を描き出す。安吾の文学は、理念による解決を示すものではなくて、むしろ問題を提起するものである、という内容だったように思います。

研究会の発表、素人的には少し難解なところもあったけど、それでもこうして、発表を踏まえた上で改めて原作を読みなおすと、初期ファルスを読む視点が増えるし、楽しいです。
私見としては、安吾さん読んでて、やはりつまづくのは、ファルスと呼ばれる初期作品だと思います。ファルスというからには、笑いのツボを突いてくれるのだろうかと思って読み込んでても、いったいどこで笑っていいのかがわからない。そもそも文章読んでても、頭の中に入ってこないw そんなことが多くてついつい積ん読になってしまいます(「風博士」は数少ない例外でしたが)。
そういう個人的実情もあったので、深く読み込まれた方による発表を聴くのは、原作を読む上でおおいに助かりました。

さて、前半2時間のプログラムを終え、いよいよ15時からは 、特別ゲストによる対談ということで、いとうせいこうさんと、陣野俊史さんによる対談でした。聴講生もにわかに増えてきて、講堂も賑わってきました。ほぼ満席かといったところです。
なお、この対談については、手持ちのノートにがりがりメモしてみましたので、以下の通り文字起こししてみます。
せっかくブログにアップするのだから、ここではネットスラングの顔文字やwを意図的にねじ込みました。こうすることで、会場の雰囲気をそれとなく伝えることができればと思ったからです。
また、例によって、自分のフィルタにひっかかった言葉しかメモできていないし、聞いててよくわからなかった部分は適当に端折っていますことをご了承ください。また、各節に割り振った <表題>は自分の判断で自由に創って埋め込んだものです。

I=いとうせいこうさん
J=陣野俊史さん
Q=質疑応答者(聴講生)

<はじめに>
J:よろしくお願いします。この対談、浅い考えで引き受けました。安吾の専門家の前で安吾を語ることはおそろしいことだと思いましたが、もう、取り返しがつきません。でも、それなりにトレーニングはしてきました。
I:僕は単行本の全集が出されたのが(安吾を読んだ)始まりですね。それまで有名どころは読んできましたが、全集をとおして洗いざらい読みました。
今回は、戦時中に書かれた、「イノチガケ」や「日本文化私観」を読みなおしてきました。再読すると、イメージが変わってきまして、おかげで、いまだに、わからないものがある。そういう意味で、古びない人なんだなと思います。
J:文庫本全集がでたのは25年前でしたね。毎月、刊行されるたびに買って読んできたけど、なにぶん厚いのでとても間に合わなくなって、ついに文庫本の方(の刊行ペース)に抜かれてしまいましたw
I:僕は、太宰の全集を文庫本で読んできましたが、僕が「Dシステム」と呼ぶメタフィクションの構図に、太宰自身は悩んでいたんだなと感じました。太宰は実はフィクションの語り手なのだが、物語が破裂してしまうことがあって、メタフィクションからフィクションに落ちていくことがあるのです。
ところが、安吾は、太宰とは違って、作品の視点がころころ変わるので、ひとつにまとめられない。つまり、多様なので、図式化できない。だからまた読んでしまう。

<質疑応答>
J:メタ小説の話をしていいでしょうか。
それとも、この辺で質疑応答にしましょうか。何か質問ありましたらよろしくお願いします。
Q:いまから安吾を読むとしたら、最初はなにがよろしいでしょうか?
I:(いきなりそこからですかw)その質疑への回答は、座談のあとにとっておきましょうw
・・・こういう場所で、あらゆる話がすべてでたあとで、あとでまとめて質疑応答は、無理があるでしょう。だからこういう風に、途中途中で質疑応答を入れていきたいと思います。よろしくお願いします。

安吾捕物帖>
J:結局、文庫本を読み直そうとしてきたものの、「不連続殺人事件」といった小説の評価は高いのだろうか、と思った。曽根中生という人が監督した映画を、今回3時間かけて観てきたのだが、あれは、内田裕也がすごかったw 上半身ハダカでサスペンダーつけているのがおかしくてw
I:推理小説というと、勝海舟のでてくる「安吾捕物帖」は大好き。小刀で頭を切って悪血をとっているときに、事件が起きてきて、それを解決する。あんなおもしろい小説が、なんで書けたんだろう。メタレベルの設定もなにもない、ふつうの捕物帖だ。ふつう、ああいう俗なものを書くと、作家はオチブレ感がでてしまうものだけど、安吾の場合は、そういう感がない。海舟のことを書きたい、という思いしか感じない。それが稀有です。
堕落論も下品なデカダンではないです。ただただなにもできなくて爛れていく、というわけではないですよね。
ただ、「安吾捕物帖」は最初に読むべきものではないかもしれませんね。

<イノチガケとクレオール
J:「イノチガケ」という小説ですが、・・・これずっと読めなかったんです。というのも、自分が長崎出身なので、浦上のキリスト教弾圧のことや、雲仙の血の池地獄のこととか、受難史がどんどん出てくることもあるので、そのせいか、なかなか読めなかった。
この、キリスト教受難の歴史がつぎつぎと書かれてくるこの世界。なにかに似ていると思う。ボラーニョの「2666」の第3章に似ていると思いました。
I:そうです。ボラーニョです。よく似ているんですよ。殺された、という事実が延々と続くところが。
J:メキシコのある村で人が殺されるという事件が延々と書かれる。
I:麻薬組織による殺人がつぎつぎと記されるのですね。安吾が「イノチガケ」でキリスト教信者がつぎつぎと弾圧される、その全体を、歴史として冷たく書いている。お涙ちょうだいにはならない。それでいて、ただ事実を羅列して書いてもいる。その異なる二重のレンズがおもしろい。小説なのか、歴史なのか、複数の焦点で物を書いている感じです。
J:たしかに、(すでに)在るものを書き直して書いている感がありますね。資料をまるまる書き写しているようでいて、何か焦点が合わない感があります。
I:それと、これらの資料をどうして調べたものか。1940年頃に書いた「イノチガケ」は、(戦時中という)不穏な時代に書かれたものです。
「イノチガケ」とカタカナ書きする感覚も不思議です。ふつうは漢字でかけばいいものを、カナ書きだと、醒めている感覚が不思議です。
J:ボラーニョも淡々と書いていますね。ただ、内部に何かしらたぎるものがあります。
(先だって)ボラーニョの翻訳者に、ボラーニョと「イノチガケ」が似ているね、と訊ねたら、「似てます」と即答されましたw
I:何に対して、安吾は「イノチガケ」を書こうと思ったのか。宗教のことだけではなくて、信念をもつ者の内心について書きたかったのではないのか。内心を言ってしまうがゆえに弾圧される者の小説です。
J:モノが言えない時代に内心を言ってしまうことへの共感と言えますね。
I:周りの読者にはそのことを激烈に書いて示すしかないわけで、それに揶揄の気持ちを込めて書くと、やはり、カタカナで「イノチガケ」になるんだな、と思います。
ボラーニョのことで思ったけど、当時のマニラにはフィリピンのクリスチャンの拠点がありました。宣教師はマニラで、日本語をマスターして、日本に渡来するわけだが、ただ、日本のなかのいろいろな地方の方言が混ざってしまったりで、結果的に「ラテン語なまり」の日本語になってしまうので、それで宣教師だとバレてしまう。ラテン語なまりの日本語って何だろうw ユーモラスに書いていますね。ついでに、「クレオール」がここにあると思いました。
安吾はあらゆる言語使いでもありますね。神経症を治すために、パーリ語もおぼえたくらいだからw
言語システムというものに敏感な人だったんだなと思います。
J:いとうさんにとって、クレオールってどういうものでしょうか。90年代から言われていることで、フランスでは、自分の言葉としてクレオールを使っていこうという動きがありました。
I:僕は、親の代が長野県の出身なわけですが、それで信州の言葉を小説にとりこんでみたら、小説に厚みがでてきた。ふるさとの言葉を使うとはこういうことなんだなと思った。
もしも信州弁をそのまま英語にするとしたら、どうなるだろう? そういったことを意識しながら小説を書いています。
他国語へ作品を翻訳するとどうなるか。方言を英語化するとどうなるか。そこにクレオールが生まれるのではないかと思います。
J:たとえば、ピエール・ギュヨタという作家がいまして、アルジェリアの戦争で精神が壊れてしまって、そのせいで、まともな言語で小説を書いていない。その作品を日本語訳しようという試みがあって、どうしたかというと、韓国語とまぜこぜして訳しました。あれは小野さんによる翻訳です(フランスの対岸にある国がアルジェリアだから、日本の対岸の国はというと韓国になるから?)。
I:小野さんはたしかにクレオールを意識して文章を書いていますね。方言を使用すると、ノスタルジックになるけど、小野さんの場合は、方言を使うとどうなるかということをよく考えていて、そこのところが、安吾的と言えます。
「すばらしきソリテン(?)」という本があって、いろんな階層の黒人の証言をあつめて、いろんな違和感を表現している作品があるのですが、これはクレオールですね。文学に持ち込まれると、異化します。近代化するうちに、文化的にいろんなものが失われてゆく島のことが(作品の)テーマなのですが、ここに「言葉にのどを掻き斬られて死んだ」という表現がでてきます。
他言語を使える者として、安吾は他言語をバックボーンとしてモノを掻いています。それが大事。カタカナ表記が混ざるのもそのためです。
「文字と速力と文学」というのエッセイがありますね。(僕は)あれが好きで、頭で思うことに、書くことが追いつかない、それで独自に速記法を編みだそうとするものの、失敗してしまう。文字に阻まれるという感覚を持っているんですね。

文学のふるさと
J:小柳さんの芥川賞のスピーチが、今月の「群像」に載っていますが、あれはすばらしいので読んでほしいと思います。
J:「文学のふるさと」は赤ずきんちゃんがオオカミに食われるという話で、そこにふるさとを見いだすという内容ですね。アモラルな作品にこそふるさとがあるというものですね。
いま、そういう作品を書いている作家、というと、思い当たらないですね。中村文則さん??? あれは日本では珍しいタイプの作家かもしれませんね。物語がぷつんと途切れてしまっても、中村さんはわりと平穏にやっていくタイプですね。
I:「文学のふるさと」は突き放されるという体験が重要なことと言っていますね。感覚をごまかさない。
誰かに冷たくされる、不利益を被る人が、ネット上で人を攻撃していることがありますね。自分自身がなにかを受け取っていないと気が済まない人々。いわゆるクレーマーですが、同じクレーマーでも、他の人がアンチなことを唱え始めると、とたんにその人を攻撃をはじめる。単純にいって、人はみな突き放されて生きているわけだが、クレーマーは突き放されていることに耐えられない人々なのです。そういうことを、安吾のいう「ふるさと」を倫理として読み直さないといけないね、と時局的に、考えています。救いが無いことを良し、としてもいいのではないかな、と。

<日本文化私観>
J:「日本文化私観」は1942年の刊行で、ちょうど真珠湾攻撃のころですね。
I:その時代に安吾はなにを書いていたのか。
J:これには心を打たれましたね。「帰る」とは不思議な魔物だと書いています。文学はこういうところから生まれてくると思いました。
I:安吾のいうことはいまでもわからないですね。
J:帰ることに対する警戒心がありますね。それと刑務所を絶賛しているし、工場萌えもしていますw 工場の、何のへんてつもない形が大好きで、必要こそが最大の美とみなしている。後ろめたさを切り捨てることへとつながってゆきますね。
I:竜安寺とかいった寺院の建築なんて、なくてもいい。日本浪漫派のこともバッサリ斬っている。時局が「日本」な時代なのに、必要なもの以外は切り捨てる。あの時局にここまで書いたのは、すごいと思う。スキをついたとしか言いようがない。
「真珠」も同時期に書いたものですね。文面上は特攻隊の活躍に涙がでたと表明はしているものの、しかし、日本バンザイは唱えない。この、まきこまれない、同調しない感は、すごいと思う。
J:このごろ外国人が日本をホメる番組が増えてますね。
I:(そういうのは)レギュラー依頼を断っています。しかし、ゴールデンタイムでは、そういう方向で企画が動いていますね。もはやテレビを観る層に若い人がいない。若い人はネットの方でメディアをみています。
ピンキーとキラーズ的なナツメロがでる番組がこのごろ多いですね。視聴率もとれています。50代60代の人がテレビをみていますね。
もう、テレビでは、ひとつの時代が形成されないのですよ。各世代でバラバラです。投票率が低いのもそのためですね。
そこで、「安吾」はどうかというと。・・・
J:「必要」はキーワードだと思います。青来さんの長崎を舞台とした小説「爆心地」というのがあるのですが、爆心地にラブホテルが建てられていきます。つまり、生活がそこにあるわけで、必要・生活が爆心地を埋めていくということです。
I:「伝統」という「悪」に惑わさて、その後から論じるから、日本の美なるものにも惑わされてしまう。日本人という視点にとらわれないようにしていきたい。

<白痴と芸人感覚>
I:戦後まもなくの「白痴」ですが、あれは「偉大なる破壊」がよく出てる作品ですね。白痴を自宅の押入にかくまう内容ですね。だから爆弾が降ってきても逃げない、逃げられない。
「偉大なる破壊」とはなにか、ということですが、戦争を「偉大」というのは悪趣味ですね。しかし安吾としては、そこに公正性があるとみるのです。誰の因果関係も関係なく、戦争は公正になにもかも壊します。つまり裁きは公正であるということです。平等ではありません。
「どうして逃げないの?」と聞かれて、「芸人だから、生命の極限をみとどけたい」と答えますね。言い訳めいていますが、極限をみてみたい、という興味はありますね。僕は先日、床屋に行ってきました。ところが白髪がおおいので床屋の方で勝手に茶色く染めてしまいました。ところが、自分でもこれがどうなるのか、おもしろおかしく感じている自分がいるのです。実験台にされたことのおかしさ。そこが「芸人」なのかもしれません。
J:柄谷さんを引用しますが、戦争反対ではないのですよ。「自由の確立のために戦う。戦争は文化を交流させる。いくたびかの起伏を経て、永久平和になる」などと言っています。最終的には単一国家を目指すということで、破壊は偉大なのかもしれません。
I:この間、筒井康隆さんをゲストに呼んで話を聞いたのですが、「ここのところ戦争がないから、見てみたい」と言ってましたw 筒井さんらしいなと思います。挑発的なニュアンスもあるのかなと思います。
J:「世界の単一国家像」という言葉についてですが、あ、安吾オシムかな、と思いました。オシムという人は民族の共同体を唱えた人で、三つの民族をまとめあげた人でもありますね。

<質疑応答>
I:ここで質疑応答に入りたいと思いますが、なにかありますか。
Q:安吾の小説にでてくる人々の言葉に「あきらめる」要素があるように思います。あきらめるという言葉には「明らかにする」「あきらめる」という二つの意味があります。二つの意味が近しい関係にあります。このあきらめる感覚を、宗教ではなくて、安吾はどこで意識したと思いますか。
I:あきらめる要素があるとは思いませんね。ただ、やぶれかぶれではあると思います。パンクスピリットとして、「巻き込まれない」感覚がありますね。
安吾の場合は、明らかにするというニュアンスの方が多いですね。
J:「教祖の文学」についてですが、山城むつみさんが、ああいった文章は書けない、と言ってましたね。自分が死んだら文学は終わり、というあきらめがあります。どこで身につけたかというと、自分にはわからない。
小林秀雄が駅のホームから落ちるというシーンがありますが、どちらかというと(ホームから)落ちるのは安吾自分自身の方だろ、と言っているのもおもしろい。あれは自分の文学に対するあきらめの気持ちがあると思います。
そういえば、柄谷さんが(新潟で)文芸協会を辞める理由も、安吾にとても似ている。あれは柄谷さんの書いた安吾論の最後に載っています。

Q:いとうさんの小説には、外からの視点というか、誰かに読まれる、という感覚がありますね。いとうさんが考えている読者の時間的スパンはどういったところでしょうか。
I:えらそうな意味ではなくて、長い年月残る可能性がある、ということは考えている。何かを手渡したい人がそこにいる。閉鎖的なところにとどめたくない気持ちはあります。
「世界に7人注目する人がいれば、いい」と言ったこともあります。
たとえば、中国のあの政治体制下でモノを書いている人がいますね。ああいう人に、自分の本がもしも読まれたら怖いと思うことはありますね。これって、音楽をやっている人は、受け取る人のことを常に意識するのはあたりまえだろうとは思うけど、小説を書く立場だと、どうしても中にこもりがちになってしまうのでないがしろになります。そうでないようにしたいと思っていますが。

I:はじめの質疑に戻って、「最初に読む本は何か?」ですが、・・・
J:近藤ようこさんの漫画「戦争と一人の女」を読みました。あの人は女性のとらえ方が独特ですね。カラッポの女を造形しています。安吾以降ああいう人を書く人はいないように思います。
また、女性の作家で、戦争を描く人がもっとふえてくれればいいなと思います。
I:今日の談話をふまえて、「安吾捕物帖」を読むといいと思います。戦争を経て得られた視点を踏まえたうえで読むのはいいことだと思います。
ありがとうございました。