寂聴さんつながりで

その師匠に当たる(?)今東光さんについてネットで調べてみる。某wikiにおいて「東光の小説が河内を有名にするどころか『柄の悪い場所』というネガティブな印象を全国に定着させたとして今でも嫌う向きがある。」との記述発見。おやおや,どのような作品を書かれたのかは判りませんが,作品ゆかりの地の河内では,マイナス評価が下されているのですね。
事情は異なるとしても,安吾さんもかつて地元新潟ではマイナス評価を下されてた,ていうか,黙殺されていたらしい。先日銀座ルパンで同席したSさんが証言されてたのをふと思い出しました。「むかし、転勤ということで,安吾さんゆかりの土地,新潟に移り住んだ。その当時は,安吾さんのことを積極的に語ってくれる地元の人なんか,まったくいなかったので,びっくりした」とのこと。何年前のことなのかは訊き逃したが,30年くらい前のことだろう,とは思います。もっとも,いまでは「作品だけで」安吾さんに親しむ人が多いから,事情は変わっているとのことですが。
たしかに,生前は,文士が不良呼ばわりされていた時代で,ましてや無頼派などというレッテルを貼られて,アナーキーな思想を書き散らして,当時の純真な若者を感化せしめた。そしてドラッグやアルコールにはまってしまって,私生活も破天荒だった。それを新潟市の名家のぼっちゃんがやってくれたのだから,同時代同県人からの評判は芳しくないのでしょうね。おそらくだけど。
人間が人間を評価するということは,どういうことなのか。同時代の人間を評価することがどれだけむずかしいことなのか,そしてそもそも不可能なことなのだ。こういう問題提起って,昔の人間の活動を知ることでけっこう得られるんじゃないか,古典を読んでいておもしろいと思ったりする契機のひとつでは,と思ったりします。
現在で言えば,このあいだ,ロスで自死してしまった三浦さんなんか,どうだろうか。同時代の自分たちは,正負は抜きにして,どれだけ「評価」できるだろうか。もしも,疑惑が,「単なる疑惑」であったならば,三浦さんによる生前の弁明活動というのは,既定概念に囚われずに,物事の本質を探り出して,世間に司法とマスコミの問題を提起した,という意味では,正当なものだということになる。もちろん,反対に,疑惑はやっぱり疑惑で,保険金殺人が真実だったとしたなら,これまでの弁明活動の意義は根本から土台は崩れるわけですが。ただ,はっきりいえるのは,こういう現在進行形な問題は,同時代の誰も判断を下すことはできない。むしろ,一般人レベルでは,じっと沈黙していたほうが安全だったりする。だが,時が経てば,真実はきっとわかるし,どちらかの方向へ評価されるということになるのかもしれません。
なんだか,取り留めのない閑文になってきました。これから買物してきます。