本日の読書

夢野一族―杉山家三代の軌跡多田茂治著)」 杉山家3代(茂丸,泰道,龍丸)についての記録。とくに,3代目龍丸氏とその弟二人についての記述は類例が少ないのではと思う。興味深かった。
三男参録氏は、風貌が父久作にいちばん似ており、気質も近いものがあったとのこと。ただ、不遇の生涯を送られた模様で、ほんの一年程度小学校の先生をされたとき以外は、生涯を無職で過ごされたとのこと。詩作を地元の出版社から出しているとのこと。この参録氏の詩集は読んでみたいと思う。いまでいうニート同然な生涯を送りながらも、それでいて自身の矜持を保つために、どのようなメッセージを詩文に託したか。ときには現実から逃れるように夢の世界を漂いつづけたか、ときには気持ちを奮い立たせたか。21世紀の読者宛に伝えるに値する詩が残っているのかどうか確認してみたいと思う。残ってたら○、残ってなければそれまで、ということで。
新世紀への安吾―坂口安吾論集〈3〉ゆまに書房)」 巻頭にて建築家の井上章一氏が寄稿されているエッセイが印象に残る。安吾好きが陥りやすい罠をもよく指摘しているなと思う。法隆寺桂離宮が焼けて無くなってしまっても,我々は全く困らない,まったくそのとおりだと思う。だけどこのように言い為す事は,じつは「子供にでも出来る」ことなのであって,本来,「大人の仕事」というのはそうではなくて,逆に,ありとあらゆる歴史的資料を駆使して,桂離宮の「良さ」や「美しさ」を説明するということである,ということなのだ,ということを著者は言っている。ただ、「無くてもいい」と書くだけではだめとのこと。そういう意味では「日本文化史観*1」といっしょくたにされるのは嬉しくないとのこと。なるほどと思う。
安吾の文体の、あの、対象を一刀両断して言いたいことをずばりいうその歯切れの良さは、ついまねをして自分の文章に取り入れたくなる、だけど、一般の人が安吾調をまねると読むに堪えないものができてしまう。ただ、あつかましいだけの文章になってしまう、というのはよくあることだと思う。なぜ安吾が書くと読めるのに、他の人がやるとだめなのか。自身に与えられた立場をわきまえて書くということがどれほど大事なのことなのか。書くという行為の原点について考えさせられる。だけど、これは上記井上氏によるエッセイの主題とは別方向の話ですが。

*1:私観だってばぁ