鑑賞ログ

この冬でもっとも繰り返して楽しんだCDがこれ。この一時間にも及ぶ長大な音楽の輪郭をなぞりになぞってログを書いたあまり。ブログにはふさわしからぬ,おそろしい長さになってしまった。
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(第一部)冒頭。オーケストラの斉奏によるアマテラスのテーマが壮大に壮大に歌われる(0:00)。それは管楽器の寂しげな間奏(0:40)でいったん間をおいて,それが一段落つくとさらにもう一度低く呟くように再び押し出され(1:26),それはまた管楽器に受け渡され,繰り返される。このテーマをぜひ覚えておいてください!と何度も念を押すかのように。
そしてすぐに荒々しく飛び跳ねるようなテーマに変わる(1:59)。スサノオのテーマであろうか。ティンパニの音がどかどかと打ち鳴らされ,なにかしら不穏な気配が漂い始める。そしていったん間奏をひとまずおいてから,このテーマはさらにさらに不穏にどろどろと鳴り出しはじめる(3:39)。さながらスサノオの横暴ぶりが目に見えるかのようだ。この後音楽は弦楽器中心の対位法的進行に入る(4:19)。低弦はスサノオのやんちゃぶり,そして高弦はそれをとりなそうとどたばたしているアマテラスの様子を表わしているかのようだ。しかしそのとりなしもむなしくスサノオの横暴は激しくなるばかりで,ティンパニの音はますます荒々しく鳴り響く(5:13)。その後,チェロが弱々しく弱々しくアマテラスのテーマを斉奏しはじめる(6:22),さながらすっかり困りきってしまったかの気配である。やがて高弦がハープをも従えて悲しくも美しい歌を歌い始める,それはまるでアマテラスの悲しみと憤りを表わしているかのよう(8:51)。そしてとうとうアマテラスは天の岩戸に引きこもる,ティンパニの連続音が実に重々しく響く(10:05)。そう,この世は闇に閉ざされてしまったのだ。高天の原も,地上界もすっかり闇に包まれてしまった。そしてそんな暗黒の世界につけ込んで無数の悪神,悪霊が横行跋扈し始める。このときの間奏曲(11:42),ヴァイオリン群の高音域による,嘆きにも近いメロディは悲しくも美しい。
そしてスサノオの荒々しいテーマがふたたび繰り返される(14:16),さながら黒い高笑いをかますかのよう。あらゆる災いが天上界地上界を問わず発生し,世相は乱れ,音楽は荒々しく不穏な展開をみせる*1
そしてコーダ(18:42)はチェレスタのきらびやかな響きの中で,弦楽器と管楽器がゆったりとしたメロディを受け渡し合い奏で合い,第1部は消え行くように〆となる。
(第二部) ハープがリズムを刻むなか,ヴァイオリンがこの闇の世を儚み嘆くかのごとく,寂しく歌を奏ではじめる(0:00)。
だがいつまでもこうしてはいられない。フルートがコミカルな調べを鳴らし始めると(1:03),このままでは終わらないぞという気配が感じられてくる。ハッピーエンドは必ず約束されてるようです。
これ以降は,神々が,アマテラスを呼び戻すためにあらゆる知恵を絞りあい,あらやる小道具を出したりしているようで,その必然で,テーマが複雑にからみあい,転調したり,変奏したりして,進行するので,わたしごときには,音楽のみ聴いただけでは,どれが何を表わすテーマなのか察知することはできないでいるのが残念。もともとバレエ音楽という舞踏披露を前提として作られた作品なので,おそらく楽譜にはここがこの神のテーマ云々と書かれているのではないかと思うのだが。
その代わりに古事記の該当原文を以降に写経して,自分の頭にそのストーリーを叩き込んで楽しむことにする。もちろんそんなこと抜きにしても楽しさの極みのような音楽で,何度聴いても飽きが来ない。

是を以ちて八百万神,天安之河原に神集ひ集ひて,高御産巣日神の子思金神に思はしめて,常世の長鳴鳥を集へて鳴かしめて,天安之河原の河上の天堅石を取り,天金山の鉄を取りて,鍛人天津麻羅を求ぎて,伊其許理度売命に科せて,鏡を作らしめ,玉祖命に科せて,八尺勾玉の五百津の御すまるの球を作らしめて,天児屋命・布刀玉命を召びて,天香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて,天香山の天の波波迦を取りて,占合まかなはしめて,天香山の五百津の真賢木を根こじにこじて,上枝に八尺勾玉の五百津の御すまるの玉を取りつけ,中枝に八尺鏡を取り懸け,下枝に白丹寸手・青丹寸手を取り垂でて,此の種々の物は,布刀玉命,ふと御幣と取り持ちて,天児屋命,ふと詔戸言壽き白して,天手力男神,戸の腋に隠りたちて,天宇受売命,天香山の天の日陰を手次に結ひて,天の石屋戸にうけ伏して踏みとどろこし,神懸り為て,胸乳を掛き出で,裳の紐をほとに忍し垂れき。爾に高天腹動みて八百万神共に咲ひき。

上記のストーリーを経つつ,第二部は,ほんとうに多彩なテーマで繰り広げられていき,最後のアメノウズメ登場まで伏線たっぷりに進行していくかのようだ。*2。そしていよいよコーダに近づき,アメノウズメによる乱舞のテーマ(34:40)が開始される。オスティナートで繰り返し繰り返し進行し,じゅうぶんに溜めを経て,楽器をとっかえひっかえ,ラヴェルボレロ調で,すこしづつすこしづつ狂乱的なまでに盛り上がっていく。まさにこの曲の最大の聴かせどころにふさわしい。そして最高潮になると,突然,ハープがからからと上昇音階を発し,シンバルがばしーんと豪快に叩かれ,トライアングルがきらきらと鳴り響く(38:37)。その鮮烈さがじつに印象的*3。そう,アマテラスがようやく重い岩戸を開け放ち,神々しい光が再び天上界地上界に戻ってきたのである。トランペットによる歓喜の歌が実に待っていたとばかり嬉しげである。
そしてすぐに大団円。冒頭からおなじみ,アマテラスのテーマが懐かしげに斉奏される(39:56)。そしてそれは2回,3回と繰り返され,そしておしまいはぐっとテンポを落として,金管も加わり,おごそかにおごそかに,名残惜しげに奏でられ,そして,シンバルも加わり,壮大な最終和音で,この長大なバレー音楽は幕を下ろすのであった。


こうして聴いてみて,ふと感じたのは,「楽しいことをひたすら一生懸命やり続ければ,世の中はきっと変わる,もっともっと楽しくなる! 景気だって良くなる! 平和だって取り戻せる!」というメッセージを,貴志はこのアメノウズメの踊りに託して,語らせているかのように思ったことだ。
もちろん貴志の音楽は,なによりも親しみやすいメロディに満ち満ちていて,まずそれを率直に率直に楽しむものであって,このようにベートーヴェン交響曲風な重ったいメッセージ性を見出して鑑賞するのは,もしかしたらかなり野暮で的外れなことなのかもしれない。
だが,古事記「天の岩戸」という挿話は,乱れた政治が,紆余曲折を経て安定を取り戻すまでの寓話としても解釈されうることを考慮に入れてみると,あながち外れでもないのでは,とも思ったりもする。
もちろんどこまでが貴志の意図で,どこまでが古事記の意図かは判明するわけはない。ただ貴志は,この「天の岩戸」という題材を得て,自分の思うたけを,精一杯楽譜に書き記したには間違いないはず。そしてそうして生み出された芸術が理想とするところは,貴志にとってだけではなく,誰もが理想とする平和な世の中への願望とも合致するわけだ。
だが,そうして描かれた貴志の理想とは裏腹に,誰もが知るとおり,昭和初期の日本は,対中関係と対米関係を徐々に悪化させてゆき,戦争の道へと突入していく。貴志にとって幸いだったのは,そんな日本の末路を見ずに天に召されたことだろうか。
それでも,貴志の残した音楽は貴志の意思とは離れて,後世いつまでも,楽しさの極みな音楽と共に,わたしたちの心になにかを投げかけてくれる。
いつでも楽しいこと考えよう,楽しいことやり続けよう,アメノウズメのようにひたすら楽しく踊り続けていれば,周りの重ったい腰も心も動き始め,徐々に徐々に,巨大なムーブメントとなって,世界はより楽しく明るく動き出すに違いありません。聴いててたいへん元気がでてくる曲なのです。
何度読み返してもやぱぱりなげーよ。長々しい文章失敬でした。

*1:それでもどこか軽妙でコミカルな印象をも感じさせるのが,貴志らしいというところだろうか

*2:ところで,第二部の中途(22:29)付近で場面ががらりと展開するかのような印象のあざやかな箇所があるが,この箇所は何を舞踏しているんだろう? ここはバレエとして具体的な映像で見てみたい箇所だ

*3:この箇所は,最初からストーリーの進行にどっぷり身を委ねて聴いていれば,とっても効果的,ようやく戻ってきたアマテラスの光の再来に,感動に目がうるうるするほどの感あり。