日録:さかのぼって書き込む

晴天。何かが狂っただけで、よくあることだとはわかっていても、腹が立つことは腹が立ちます。人と人との相性が悪い、ということは、どうしようも無いことだと思う。その厄除けのためにもここに書いておこうと思う。

先日、電脳上のとある友人と、ダイレクトメールで喧嘩別れしました。もともと人の投稿に、方向のずれたリプを平気で書き込む人でした。投稿としてアップした画像や、書き込んだ文面のことには、何も言及せず、何一つ踏まえず、ただ短文で「楽しそうで羨ましいです」おもしろい計画を打ち明けても「楽しんできてください」のそっけない一言だけで、なにかなんだか本意がつかめない(そして、なによりも、おもしろさが欠けている)。そのせいなのか、リプ欄もはずまないので、そのうち、わたしもリプ返ししなくなってしまった。

もともとは、とある映画好き、という共通項で知り合った知り合いだったわけですが、たまに生で立ち話するときなども、その映画作品についておもしろおかしく感想述べあうわけでもなく、ただ、顔をしかめて、関係者が某社会運動にのめり込んでいるのが(煙たくて)、やつの投稿は見えないようにしている、などと、現状に対する不満ばっかり並べ立ててくる。とにかく、何かに付けて、顔をしかめて、くさすことだけが本性のようなのです。

そういう割り切れない経緯が続いたので、たまたま先日、ダイレクトメールが届いたわけだが、いつもどおりのそっけない短文の一言に終始していた。とうとう自分もブチ切れてしまって、相変わらずそっけないですねの一言と、続けて、こたこたと苦情を書いてしまった*1

そこから、まもなく、わたしに対する批判めいた文面が、一見もっともらしい常識ベースで返されてきた。たしかにもっともらしいのだが、すべて後付け後出しジャンケンの理屈である。意思の疎通のよくないことは、お互い様だとしても、やっぱり、いろいろ不満なんだな、文句を言いたいんだな、と思った。はじめのうちは、ひとつひとつのそれら批判のことばと向き合って、なんとか交友関係の修復でも図らねば、とも考えたりもしたが、どうも、それでは、自分、あまりにもやさしすぎるのではないか。そんなの意味はないのではないか。そんな気もしてきた。

もともと、知り合ったことのはじめにことばを交わした当初から、独特のズレのある相容れない違和感があったし、その小さな違和感は、もともと解消できるものではなかったのではないか。これ以上、心やさしく、きまじめに、この批判文面と向き合っていても、仕方がないと思うようになってきた。そう割り切って、メッセージとして送られてきた批判文面は、これ以上は、読まないようにした。ただただ、機械的に謝罪のことばだけ添えて、返信をした。

今後は、なにかのはずみで新しい交友関係ができたとしても、事の初めから、直観的に違和感を感じる人なれば、うかつに交友関係は持たないようにしたいと思います。あいまいな意図しか告げてこなければ、取り合わないようにしたいと考えている。これは、プロのライターさんではなくとも、なにか仕事を引き受けるときの理屈とも相通じるものがある。まずことの初めにダイレクトメール文面で、依頼内容の具体的なイメージや報酬を伝えられないようでは、取り合ってはならないのである。ですからそこは食事でもしながら、などと提案してくるのは、論外である。

いろいろと教訓は得られたわけだが、この痛い教訓が得られるまでに、3年近くの時間が費やされました。それだけ見た目は善意な空気を身にまとった、なんとも御しがたいパターンだったわけです。-10_11_21

*1:これには縁切り神社も係わっている。時々、京都や神戸の有名なお社に立ち寄って、これは切れないものか願かけしていた。こういう念は、時に行動を現実に実行する伏線になる。ありがたくも、おそろしい。ご利用は要注意です。