本日の読書

梅棹忠夫の京都案内 (角川ソフィア文庫)

都の人間として通用するためには,その詳細にして巨大なる体系を,からだ全身でおぼえなければなりません。そのための訓練は,子供のときからずいぶんきびしいのですが,京都でそだった人たちは,いつのまにか身についています。ことばについても,ステロの訓練はきびしいのですが,いったんおぼえこんだら,もうレールの上を走るようなもので,いくらでもその場その場にあわせて,適切な会話が,いともうつくしく,なめらかに出てくるものなのです。
ただし,要するにステロ版の組み合わせですから,けっきょくは口先だけのやりとりです。心の中のふかいところには,なかなかきりこんできません。むしろ,京ことばというのは,心の中のふかいところにさわらずに,表面だけの社交でさらりとかわすために発達したようなところがあります。本心をかたったり,ひとの心にふかいりすることは,京都のひとにとっては,たえがたいことなのです。・・・P176

京ことばも,やはり訓練のたまものやと思います。発声法からはじまって,どういうときには,どういうもののいいかたをするのか,挨拶から応対までを,いちいちやかましくいわれたもんどした。とくに中京・西陣はきびしゅうて,よそからきたひとは,これでまず往生しやはります。口をひらけばいっぺんに,いなかもんやとバレてしまうどっさかい。
そもそも京ことばは発音がむつかしゅうて,ちょっとぐらいまねしても,よっぽどしっかりした訓練をうけへなんだら,でけしまへん。完全な,京都の人間になろおもたら三代かかるといわれております。・・・P223

なるほどなるほど。
ちなみに,わたしのような東北人としては,後者の引用部については,これを声に出して読み上げるときどのように発声すべきかどのように抑揚をつけるか等は,さっぱり想像がつきません。