つかの間の入院生活

抜釘手術について書きます。ついでにこの入院中に大地震にも見舞われました。
このタグでブログを綴るのもようやく終りが見えてきました、としたいところです。だけど、やれるところまでやります。やはり、これから予想外にも不幸にも足の骨折をしてしまう人のためにも、体験談ブログを少しでも綴っておき、未来の骨折患者様へのご参考にしたい、と思ってます。
2015年3月、左足脛骨の骨折しておよそ一年半経ちました。そしてこの10月19日午後、抜釘手術を受けてきました。
まず、すこしさかのぼりますが、10月19日午前9時、入院にまつわる事務手続き、そして病棟のベッドに寝ころがって、抗生剤の点滴を受けながら、手術の時刻をひたすら待ち続けました。
15時、とうとう手術室からお呼びがかかる。看護師の誘導についていくまま、手術室に入りました。フロア中央の手術台に寝転がって仰向けになる。天井にはぎらぎらとたくさんのランプが輝いている。無数の光源を眺めていると、いよいよ執刀が始まるんだな、やっぱり怖いよな、という緊張が高まります。
麻酔担当医が耳元で言う「横を向いて背中をエビのように反らしてください」腰椎麻酔ですね。1年半前の手術でも受けたことなので、言われたとおりに背中を反らしました。しばらく待っていると、腰のうしろから針でチクっと刺される。痛いけど、1年半前ほどではないな、すこしつねられた程度の痛みでした。どうやら、最初の注射は局所麻酔にすぎなかったみたいで、いったん背骨周りの皮膚をしびれさせて、それから、本番の麻酔薬をまた注射して腰椎の奥深くへ投入しているようでした。つまり2段階でやっていたわけです。どうりで痛みが小さかったのだなと思います(ちなみに、一年半前のプレート埋め込み手術では、めちゃくちゃ痛かったような記憶があります。あれは何だったのだろう? もしかして、局所麻酔なしでいきなり背骨の中に注入してました? 背後でやられたことなのでさっぱりわかりません)
しばらくして麻酔医言う「足がホカホカしてきましたか?」そのとおりなので、「はい」と回答。ホカホカした感覚が、麻酔の感覚であることは、1年半前の手術時とまったく同じです。これで下半身のどこをつねられようと、切られようと痛くないよな。自分でも安心してきました。
それから、今回の抜釘手術では、意外なことにバルーンカテーテル尿道管挿入がありませんでした。あれを男性自身の先っちょから管をぐりぐりと差し込まれている感覚の気持ち悪いこと痛いことをいまでもはっきりと覚えていたので、もうやりたくないな、でも、執刀する上で必要なら覚悟するしかないなと思って覚悟していました。でも、今回の抜釘手術では必要ないようなので、ホッとしました。これは嬉しかったです。
ということでこの態勢で待つこと10分位で、麻酔がすっかり効いてきました。ただ麻痺しているのは下半身だけであって、上半身の意識ははっきりしています。外科医と看護師とのやりとり、メスで肉を切る音すべてはっきりと耳に聞こえてきます。ただ、胸の上の垂れ幕に遮られているので、下半身の様子をうかがい知ることはできません。
外科医さんが道具を両手になにやらがちゃがちゃ動き始めました。すでに皮膚感覚は消えてしまっているので、なにをやられているのかは、わからないわけですが、それでも、足下で外科医さんがなにやら手を動かして、メスで肌をざくざく切って、骨に刺さっているスクリューネジを抜き取って、ひとつひとつトレイのうえにガチャっと落としていく様子は、作業音だけでなんとなく察することができました。そしておしまいに、脛骨の髄を貫いて埋め込んでいたぶっといチタン棒に金具を接続して、それから医療用ハンマーで、バン!バン!と2回叩きました。痛くはないけど、背骨から頭蓋骨にかかてビンビン共鳴してくるのがわかる。ものすごい力だ。外科医言う「抜けました。これで縫合して終了です」
約1時間で手術は終了でした。16時半ころには、ふたたび病棟のベッドにもどされて、麻酔が切れるのをひたすら待つだけになりました。
夕方17時頃には、まず右足の方から麻酔が切れてきて、感覚が復活してきたし、指も関節も動かせるようになってきました。それから18時頃には患部である左足の方も麻酔が切れてきました。予想どおり鈍い鈍い痛みがじわじわとでてきましたね。特にスクリューネジを埋め込んでいたあたりがじんじんと痛かったです。でも、余裕で我慢できるくらいの痛みでした。一年半前の埋め込み手術の痛みを10とすると、今回の痛みは3〜4くらいに過ぎないかなと思います。それでも念のため痛み止めの点滴も追加してもらって、ひと晩やり過ごすことにしました。薬も効き、痛みには悩まされることもなく、22時過ぎにはぐっすりと寝てしまいました。
というわけで、手術翌日20日の朝を迎えました。すでに左足の方は麻酔もすっかり切れてしまっていて、もう自由に動かせます。直観的には、これなら杖なしで歩けそうな手応えすら感じました。
ただ、腕にはまだ点滴の針が刺さったままになっているので、ベッドから離れてあちらこちら動き回るわけにはいきません。やむなくベッドに寝転がったまま時間が経つのを待ってました。
昼前に看護師さんが現れる。「点滴はこれで終了です。今日からは歩行器使って歩いてください」
歩行器というのは、U型の手すりが胸の高さぐらいまであって、ここに両手をついて体重を支えることができるももで、そして手すりを支える支柱の先にはキャスターがついていて、床の上をごろごろ転がして移動するものです。なるほどこれならバランスを崩したとしても、転倒せずに歩けそうだ。
さっそく言われるままに歩行器に両手を乗せて、それを頼りに廊下を移動してみました。余裕で両足で歩けます歩けます。たとえこの歩行器がないとしても、両足であるけそうな手応えも感じました。そういえば、過去に読んでたいろいろな骨折体験談ブログでも、たしかに抜釘手術の翌朝から歩けます、と書いてたのを思い出しました。本当だったのだなと感謝してました。
そして手術翌々日10月21日。痛みの方はすっかり落ち着いてしまっていて、おまけに病院内を自由にぶらぶら散歩できるようになっていました。もう病院内だけでは、もの足りなくなってきました。早く退院したいな退院してしまいたいなという気分ばかりつのってきました。だけど、看護師さんにそんな要望をぶつけてもしょうがないのはわかりきっています。やはり主治医のGOサインが欲しいです。
午後14時過ぎ、入院しているこのタイミングで、いきなり大揺れがきました。地震です。ちょうど病院6階談話室の窓際にて、黙々とキンドルを読んで、時間をつぶしていたところでした。携帯の警告音と揺れとが一緒にきました。初めの小さな揺れがたちまち大きく発展して膨らんでいくような感じ。大地震だなとすぐに感づきました。30秒くらい揺れつづけて、病院内も騒然としていました。しかし、5分くらい経つと「病院は通常どおりです」とのアナウンスが流れてきて、病院内は平静を取り戻してきました。窓から見下ろす米子市街の様子もいつもと同じでした。ただ、携帯でニュースを探ってみると、倉吉市でものすごいことになっていることが刻々と判ってきました。大地震で思わぬ脱線になってしまいました。
夕方、ようやく主治医に呼ばれて、手術痕の様子を確認してもらいました。「(スクリュー)ネジをねじ込んでいた箇所は、もう大丈夫ですね。ただ、膝下の(髄内釘をさしこんでいた)箇所からまだ(膿)汁がでているので、・・・明日また確認してもらって、それでよかったら、退院ですね」
10月22日。すでに痛みの方はまったく感じない。ただ、関節をまげのばしすると、手術痕の箇所がひっぱられるような痛みはありました。10時頃当番医と面談。手術痕の確認。あてていたガーゼをはずして、医療用フィルムを貼ってもらう。これで退院も良ろしいでしょうとの判断が得られました。
ようやく退院です。念のため持ってきた登山用ステッキを突きながら病院を撤収しました次第でした。
まだまだ傷口は糸を縫合したままなので、歩くたびに引っ張られるような感じは残っています。これらが解消されるまで少しずつやっていきたいと思います。週明けからの出勤ができそうでなによりでした。またネタが出てきたら続けてゆきます。では。

今回抜いた金具と術後の足です。金具は長くて、そして太いです。単4電池くらいの太さです。体内で1年半ありがとうございました。

日録

雨天。今週水曜日19日からつかのまの入院生活になりますので、休みのあいだの分の宿題を片付けるために、昼はオフィスにでかけてました。オフィスのソファでは、夜勤明けのご担当様がぐーぐーいびきを掻いておやすみでしたが、その傍らで黙々と入力作業をしておりました。こうして、前倒しで少し片付けたおかげで、なんとかなりそうです、ていうか、なんとかしてやり過ごしていきましょう。
15時ころには、オフィスを離脱して、米子に戻り、日吉津のイオンにでかけて、入院中に必要な下着などを購入してました。寝間着の方は、一年半前の本番手術時に買っていたものがまだあるので、それをひきつづき使っていこうと思います。
痛いのは、背中に針をブスリと刺すときと、バルーンカテーテル挿入のときだな。痛くても一瞬のことなので、エイと気合でいくしかないです。あとは、オペがうまくいくことを祈るのみです。おやすみなさいませ。

日録

曇りのち雨天。あいにくの雨模様な三連休ということで、せっかくの体育の日なのに晴れないのは納得がいかないものがあります。だけど、熊本の方では地震に引き続いたものと思われる、阿蘇山の噴火が起きたりしているようで、ただ漫然と物見遊山に耽るのもよくないような空気も感じてます。ともかく、自宅周りで静かに過ごすことにします。ただ、午前中は、松江のプールで1時間位水泳してました。それ以外はいたって普通に休暇ということで時間を過ごしています。おやすみなさいませ。

日録

晴天なれども暴風。前回ブログでは台風16号の件で起こしていますが、今日は台風18号の件です。山陰沖を台風の目がまともに通過したみたいですが、夕方18時過ぎをピークに、それからはすっかりしぼむように静かになっています。このまま、大きな被害はないまま、終わりそうな予感もしてきましたが、吹き戻しが終わるまでは、用心深くやっていきたいと思います。
タグに打ち込んだネタをひとつメモ。本日は、抜釘手術前検診ということで、午前中いっぱい費やして、血液検査尿検査レントゲン検査肺活量検査いろいろやってきました。肝機能の数値がすこし高いですね、と指摘されてしまいましたが、手術を受ける分には問題はないでしょう、ということで、それでは、さっそく19日に再入院して抜釘手術を迎え撃つことにしました。いろいろ憂鬱ですが、やれるときにやるべきことでもあるので、乗り切っていきましょう。
山陰の秋が少しずつ深まっていきます。毎日食べていた梨も、いつのまにか手に入らなくなってきました。おやすみなさいませ。

尾崎翠さんツアーにおじゃましてました。

尾崎翠さんというと20年位むかしに仙台の古書店(たしか萬葉堂だったと思う)で學藝書林刊のアンソロジー集「黒いユーモア*1」を古書で買ってから気になっていました。収録作品は「第七官界彷徨」ということで、当時ざっと読んでみたのですが、すこしイラつき気味でななめ読みしてしまったので、初読当時はあまり頭に入りませんでした。また巻末の花田清輝さんによる解説文「白磁鳳首瓶」もいきなり冒頭で「解説というのはむつかしい」と暴露してしまっており、肝心の「第七官界彷徨」に言及する箇所に至っても、「もっとも尾崎翠の『第七官界彷徨』という1篇だけは、わたしにはわたし以外の人のたくみな解説が必要なようにおもわれる。それは、わたしがこの作品のほかには、なに一つ、作者について、たしかなことは知らないばかりではない。およそ資質の点においても、わたしとは正反対の作者であると考えられるからである」と前置きを置いていたりするもので、おせじにも「作品の読解を助ける」ような内容ではなかったように思います。だから「蘚の恋愛?ふ〜ん、つかみどころがない世界だなあ」と思っただけで、その当時は巻を閉じてしまいました。正直言って、鈍感な読者でございます。ところが、時は巡りに巡って自分自身がなんと4月から鳥取県米子に住むことになりました。ここに至って長年気になっていた「第七官界彷徨」が自分のなかでクローズアップされてきました。この機会にじっくり腰を据えて読み直してみなくてはという気分にもなったので、改めて冒頭の「黒いユーモア」に立ち戻って2〜3回読み直してみました。それにいまはすでに21世紀です。前世紀とは違って、いまでは河出から出ているムック本「モダンガアルの偏愛*2」ほか尾崎さんにまつわる「たくみな解説」本がたくさんリリースされています。それらを踏まえて読み直してみると、小野町子という内気な女の子と、彼女を囲む下宿先の奇妙な同居人たち、そしてそれら面々を距離を少し置いた乾いたユーモアの混じった文章で描かれている件に当てられてしまうと、なかなかどうしてハマってしまうものがありました。お酒でものみながら少しほろ酔い加減で蘚と肥やしのくだりを読んだりすると思わず声を上げて笑ってしまう自分という読者を発見したりもしました。
ええと、前置きが長くなってしまいました。ゴタクはこの辺にしまして、ここからツアーのレポートを綴っていきます。
もう、いろいろありすぎて、どこから書いていいのかわかりませんので、芸はありませんが、時系列に並べていくことにしました。いろいろ混同している箇所もあるかもしれませんので、なにか致命的な箇所がありましたら直しますのでコメントいただけますと助かります。
10月1日(土)正午に、鳥取駅にツアーのみなさんが合流し、岩美町のバスにみんなで乗って、岩美町公民館に向かいました。今回、全国から募ったツアー客は、40名ということでした。
13時頃には岩美町公民館に到着し、荷物を控え室に預けてから、イベント会場のホールに入りました。だいぶにぎわっていました。後で新聞記事で知ったところによると、160名くらいこのホールに集っていたようです。
適当にパイプいすに腰掛けてしばらく待っていると、イベント始まりのご挨拶が始まりました。

はじめは、榎本岩美町長による開会のご挨拶。尾崎翠生誕120周年ということで、今回のイベントを開催したこと。そして今後も尾崎さんをどう顕彰していくか、町としても検討していくこと。今井出版から尾崎翠フォーラムの成果でもある「”尾崎翠を読む”全3巻」を発行してもらい、岩美町としても、町の「宝」ができたことがたいへんうれしいこと。併せて、岩美町が「別冊宝島」の企画で田舎暮らしをしたい町のナンバー1に選ばれたことにも言及し、福祉と教育が行き届いたことが評価されたのではと、このことを光栄に感じていること。ゆくゆくはツアーにこられているみなさまにも、よかったらこの岩美町に移住されてはいかがでしょうか、とアピールして挨拶の結びとされてました。
ひきつづいて、芥川賞作家の村田喜代子さんのご講演が始まりました。タイミング悪く、諸々ご用を足されているタイミングでご登壇の声がかかったみたいで、1〜2分程度間が空いてしまいました。その間、浜野監督が場をつなぐというアクシデントもあったりしましたが、講演の方は、そんなに待たせることもなく、始まりました。
講演のお題目は「筋骨と花束」。尾崎翠の小説を初めて読んだとき、自分と似たような発想があちこちに多くてたちまち親近感が湧いてきて、まるで「花束」をもらったような気持ちになったこと。そして、第七官界彷徨を読んでいると、そこに懐かしいお婆さんの香りが漂うのはなぜなのか。尾崎の年譜をたどってみても、そこにお婆さんの影はないのに、なぜかそれをしきりに感じるのはなぜなのか。村田さんご自身の生い立ち(自分が姉で下に弟が居られる)と比較しながら、それは尾崎自身が「自分には成れないもの」を、作家としての強い意志力と文体で、描きあげたものではないか、と推察できること。そして、そこが、今回の演題の「筋骨」でもあって、執筆当時は昭和6年という満州事変が起きたり、あわただしい時代の空気であったにも関わらず、尾崎さんは自分の文体で、現実をねじ伏せるかのように「第七官界彷徨」を書き上げてしまったことに、作家として、ものすごい「筋骨」を感じるとのことでした。また、尾崎さんのアゴの張った風貌にその意志の強さを感じるとのことでした。
それと、村田さんの小説作品「鍋の中*3」と「ルームメイト*4」はもろに尾崎翠に触発された作品であることを、作者自らアピールもされてました。この件メモしました。あとで上記の作品を買うなりして、読んでみようと思います。
講演に引き続き、今度は、女優吉行和子さんと映画監督浜野佐知さんとの対談に移りました。浜野さんが対談のナビゲータと言うことで、話の内容は主に映画版「第七官界彷徨尾崎翠を探して〜」「こほろぎ嬢」2本にまつわる収録のエピソードが中心でした。どちらの映画も、限られた予算の中で、大女優でもある吉行さんから、物心ともにもの凄い援助をときに受けながら製作されたものであることがよくわかりました。特に第七官界彷徨の最後で、鳥取砂丘の名所「馬の背」で5人のキャストが揃い踏みするシーンでは、空撮しようにも、ヘリコプターをチャーターする予算が足りなくて、やむなくカンパを募ったところ、予想外のカンパが吉行さんから寄せられたことなど、よい映画を創るということは、経済的資源と人的資源、そして何よりもまごころが寄せられることでもあるんだな、と思い、感慨深いものがありました。
それと、この対談でふれられていた岩美町の名店「くいもんやさざなみ*5」は海の幸がおいしそうなので、後日立ち寄ってみようと思います。
対談に続いて、残りの午後の時間は映画鑑賞でした。「第七官界彷徨尾崎翠を探して〜」新編集版の上映でした。もっとも、自分にとっては、この映画を観るのは今回がまったく初めてです。98年初封切の当時は観る機会がありませんでした。なので、みるものすべてが新鮮でした。どのシーンも事前に読んでいたちくま文庫尾崎翠集成」上下巻本にでてくる代表作「第七官界彷徨」と、そして年譜と書簡にも現れてくるエピソードが盛りだくさんで、下落合の下宿先で林芙美子さんを交えながら「海国的な歌声を」披露したり、鳥取帰郷して断筆後の1941年、日本海新聞の記者から執筆依頼を受けたりするシーンなど、すべてがいちいちテキストで読んだ記憶とびんびんリンクしてくるので、納得すること頻りでした。
映画鑑賞を終えると、今度は、会場を渚交流館に移して、夕食イベントです。この渚交流館、個人的にも今年の春に手前の国道9号線をマイカーで通過してたときに、目に入ってきて、いろいろ気になっていた物件でもありました。そのうち、休みの日にここでカヌー借りたり、ダイビング機材借りたりしてみたいな〜などと思ってたりしてました。それだけに、今回、この会場を案内されて、ちょっとびっくりするものがありました。
交流館のホールに入ってみると、丸いホールの両端テーブルに地元の海の幸もりだくさんな食材が並べられ、そして中央は目抜きでキャンドルが二列並べられており、その先には、舞台と金屏風がありました。いったいなにをご披露するんだろかと思いながら、ビールを飲んだりして会場の様子を眺めていました。

まもなく献杯のあいさつが始まったので、またビールをぐいと飲み干して、そして、岩美町ご自慢の海の幸もりだくさんのオードブルに舌鼓を打ちながら、適当に歓談してました。オードブルは、いろいろ地元の巻き貝の刺身、エビ、イカ、とうふちくわ、梨(二十世紀)等々みんなおいしいものばかりで、みんなで夢中になってつつきあっていました。

また、地元の民宿NOTE*6のオーナー小林さんご提供による、尾崎翠にちなんだご料理も提供されました。「アップルパイの午後」にでてきた、そのものずばりアップルパイと、「第七官界彷徨」にでてきた焦げた味噌汁なるものでした。ずっしり濃厚な味噌のなかに根菜輪切りやキノコが入っていて、酔っぱらった胃袋には、実においしく、ありがたい味噌汁でした。ご提供感謝申し上げます。

併せて特別イベントと言うことで、地元のアーティストKEiKO*萬桂*7さんによる墨絵のパフォーマンスご披露がありました。ホールの中が溶暗になり、中央目抜きにならべられた二列のキャンドルに灯がともりました。ほの暗い光の中を萬桂さんが赤い華やかな和服姿でご登場します。刷毛を手に取り、舞台の上に置かれた金屏風に一心不乱になって描き始めます。BGMは「テルーの歌」ほかジブリ系の親しみやすい曲目が延々流されたように記憶します。曲に合わせて、たちまち幻想的な絵画が金屏風に仕上がり、会場は拍手に包まれました。絵はかなり抽象的なもので、ことばでは説明しがたいものですが、傍で観てて、幻想の世界を心地よくさまようような味わいがありました。

引き続いて、フリートークということで、尾崎翠フォーラムに関わられたスタッフ様を中心として、順番に、まさに自由なフリートークが繰り広げられました。土井淑平さん、佐々木孝文さん、村田喜代子さん、浜野監督、山崎邦紀さん、木村カナさん、ツアー客としてご参加されてた作家木村紅美さん、民宿NOTEの小林さん、ツアー案内の西尾さん、西法寺山名住職(自宅で思い出す限りの面々ですが)でフリートークを楽しみました。ただ、自分自身ビール飲むことに夢中だったので、メモをまったくとっておらず、なにをトークされてたのかは、残念ながらほとんど覚えていません。特に、土井さん、佐々木さんは、尾崎文学を読む上で、けっこう重要なことをトークされてたような気がします。もしどなたかメモを残して居られたら、どこかにひとことでもアップしていただけると、嬉しかったりします。
そうだ、唯一思い出したのは、山名住職が生前の尾崎さんが、モダンな和装や洋装をまとっておられたことを回想されてた件で「彼女は口から煙をいつも吐いてました。たばこです。当時たばこを吸う女性はかなり目立ちました。いま思うと、『あなたは何者?』と訊ねておけばよかった」と回想されていたのが、面白くて、そこだけ印象つよく覚えています。
この宴会を最後に、まずひととおり、1日目のイベントは終了になりました。21時ころだったと思います。またみんなでバスに乗って、岩井温泉ゆかむりの公共浴場に移動し、つかの間の温泉入浴で汗を流して、またあわただしく、旅館(民宿:かまや&さんげんや)にむかいました。旅館でも今回の翠さんツアー客様限定の二次会ということで、おのおの自己紹介を楽しんだりしました。
それぞれ自己紹介に耳を傾けていると、40名の参加者のうち、半数近くが、東京や大阪など、都会から来られている方ばかりだった印象ですね。映画や雑誌に関わっている方も多くて、おそらく、今回、この鳥取尾崎翠から得られたエキスを、これから都会に持ち帰って、いろいろな記事や作品等へ反映されるのだろうなと思うと、わくわくするものがありました。
酔っ払っているうちに、いつのまにか眠ってしまいました。
そして2日目、10月2日(日)は、いきなり朝7時から活動が始まります。海の幸もりだくさんな旅館の朝食に大満足してから、浦富海岸砂浜に集合し、バスでまた移動です。2日目はゆかりの地バスツアーということで、はじめは岩井温泉の旧岩井小学校校舎、生誕地西法寺、岩井温泉尾崎翠記念室、そして温泉街はずれの平和橋にて町を360度囲む山並みを見渡しながら、初期作品「無風帯から」との符合箇所について、ガイドの西尾さんから解説を受けたりしました。引き続いて、港のある網代にバスで移動し、小学校教師をしていたときに住んでいた西法寺僧堂と、当時の通勤路だった網代トンネルを案内してもらいました。それが終わると、みんなで遊覧船に乗り、浦富海岸の奇岩奇勝を観て回りました。海も透明度がばつぐんだったし、船の周りをカモメが舞い、エサのかっぱえびせんを投げると夢中で食らいついてくる様子もたいへん絵になりました。


これら岩美町ゆかりの地めぐりをすませる頃には、時刻はまもなく昼を迎えそうになっていました。このあたりでぽつぽつ解散ということになり、昼食を終えた後は、JR岩美駅でツアーからおりる人、鳥取空港でツアーからおりる人、JR鳥取駅でツアーからおりる人、それぞれの帰路のスケジュールにあわせて、適当に解散していきました。そしてまだ時間に余裕のある人員だけで、最後にオプションツアーということで、翠さんのお骨が眠る養源寺(鳥取市職人町)にて、お墓参りしました。墓所は、寺院敷地のいちばん奥にありました。墓石そのものには尾崎家などとは彫っていたりしないので、なにも知らない観光客の方が、ほかの尾崎家の墓石と間違えたりするそうです(いまは、墓石隣に「尾崎翠の墓」という石柱があります)。せっかくなので、みんなで線香を焚いて、翠さんの御霊と各々自由に対話したりしました。本堂では山名住職から翠さんとお寺との関わりについていろいろ解説を受けてきました。翠さん手製パッチワークの子供服も残っていたので、そのモダンなデザインを見せてもらったりしました。
これでオプションツアーもひととおり終了ということになり、境内でこの奇縁を愛でながら、各々挨拶を交わしながら、お別れを惜しんだりしてました。そのとき、いきなり尾崎翠の研究者でもある森澤夕子さんもたまたま境内にぬっと現れる、というハプニングもありました。これもまた奇縁だろうなと思います。あとで論文読んでみますね。
そんなわけで、10月2日16時ころには、わたしも鳥取駅から快速列車にのり、自宅のある米子に戻りました。
今回の尾崎翠ツアーは、おそらく過去におよそ15年もの月日を費やして発表を続けてきた「尾崎翠フォーラム」の総決算のようなものなのかなと思います。これまで地道に尾崎翠さんの人と作品について研究と発表を続けてこられたみなさまにひたすら頭が下がるばかりです。ありがとうございました。

今回のツアーで岩美町様からありがたく頂きました「尾崎翠を読む」全三冊と、オプションツアーの養源寺でいただいた児童用仏教書「おしゃか様からしんらん様へ」大正6年刊の復刻本です。翠さんの兄哲朗さんも執筆されてます。みんな読みごたえがあります。

日録

雨天。台風16号がアバウトな進路を描きながら少しずつ東へ北へと移動しつつありで、雨が延々降り続いています。せっかくの3連休ですが、雨雲の下で過ごすことになりそうです。
本日土曜日の、午前中はオフィスの方で打ち込み作業を少し済ませて、午後は松江のプールに出掛けて1時間ばかり泳いでいました。松江のプールの場合、土曜日16時は要注意ですね。団体さんの予約とかち合ってしまって、泳ぐレーンがなくなってしまっています。なので、次回からは17時以降をねらって泳ぎに行こうと思います。
今後の予定としては、おそまきながら夏季休暇ということで、22日から28日までは秋田で過ごそうと思います。フェリーで1泊しながらの移動ですが、長距離の移動になりそうなので、とにかく安全運転で行きます。
それでは、連休第1日目夜は雨のなか、静かにお酒を飲みながら過ごします。おやすみなさいませ。