余韻は

それほど無かったりします。正直に書くと「コンクール」というのは,取り組んでいて「砂を噛むような」感慨もあります。けっして楽しいものではありません。練習といえば執拗な執拗な各フレーズの繰り返し*1,そして”本番”とは言っても,客席は大入りの客が埋まっているわけではなくて,客席にまします審査員や一般客らも淡々と舞台上の合唱表現について,いわば「品定め」をしに来られているわけです。
そこに率直な感動(音楽を造り,表現し,そして聴くことの)が,すべて,有るのだ,というわけでは無いように思います。
ただ,誤解が無いように書いておくが,これはコンクールについて,悪く言っているわけではないです。コンクールというものはそういうものなのだ,と割り切った方が怪我をしませんようです。
というのも,今週末は郡山市で「クリスマスコンサート」が開催されますので,そこでうちのチームがクリスマスに因んだ歌を歌います。課題曲は「ジングルベル」「ホワイトクリスマス」「アンパンマンのマーチ」「上を向いて歩こう」,そしてトリとして「川の流れのように」を歌うそうです。このトリの曲は,もちろん歌姫美空ひばりの掉尾を代表する曲です。そしてこれが,郡山市のこのクリスマスコンサートとしては,「定番」だそうで,毎年,実演では,けっこうな感動を呼んでくれているようです。ステージで団員がこの曲でトリを〆て,いよいよサビの「あ〜〜〜〜,川の流れのように〜〜〜〜」を各声部でハモリながら歌い奏で始めるや,客席の方では,感極まって「涙を流して」喜ぶ人が数名出てくるらしいです。この曲が,それほどまでの「名曲」であることを改めて実感させられるらしいです。
これは楽しみです。そこで表現された歌を聴いて率直に喜んでくれる人が,そこにいる,ということ,これこそが歌を歌う率直な喜びと原点のひとつですね。歌っていて気持ちが充実したライブになりそうな予感です。
もちろん,「コンクール」というものを通していて,歌唱力を保っているからこそ,今回のクリスマスのようなイベント等でも,それ相応の「水準に達した」歌唱を披露してこれたのではないか,ということだと思います。要するに,緊張感をもって,歌の練習に取り組むことが出来るということ,そしてそれが「ある程度の水準を保つための」「大切な」機会であること,これが「コンクール」というもののひとつの存在意義なのかなと思ったりします。
このことをログとして残してみたかったのであります。
こんな風に考えていますが,今週末,その実演を終えてから,どのような感慨にたどりつくことになるのでしょうか。それはわたしにもわかりません。
音楽,かつて孔子が愛し,墨子が果てなく憎んだもの。誠に奥は深い。なんやねん。

*1:ちなみに執拗な繰り返し作業って大好きです。「まもなくお客さんが大勢やってくるから、スリッパを並べておきなさい」と頼まれたら、迷うことなく、1000人分のスリッパを調達してきて玄関及びフロア及び廊下及び応接室及び寝室に至るまで足の踏み場もないくらいに隙間なく並べておきます。