本日の読書

死の家の記録 (新潮文庫)死の家の記録新潮文庫ドストエフスキー著」 ☆☆☆☆☆ ここのところ読んで楽しんでいる古典著作のうちの一冊です。2週間ばかりかけてようやく読了。読み通すのに時間はかかったが,文体としては読みやすいと思う。「悪霊」とかと違って,饒舌な台詞が少なくて,人物の外面的な描写が中心です。あのドスト氏にこういう「素直な」文体の作品もあったのかと,妙な思いすらします。内容としては,監獄での経験と,そこでの人間観察について,作品としての構成云々にこだわらないで,自由に羅列しながら書き上げられたような感じです。だから,どこで読み止しても,またあとで読書再開することが容易にできます。そういう意味では細切れ時間に少しずつ,というペースで読みつぶしやすい本でした。
シベリアでの監獄生活という,その極限状況下で,このように執拗に人間観察を続けて,作品の肥やしにしてしまった,ドスト氏の精神力には感嘆します。また,これ読んでいると,ドスト氏による人間観察フィルターというのは,「監獄の囚人」という限定枠を越えていて,人間の行動そのものの縮図を覗き見ているような気がします。言いかえれば,現実社会の人間そのものを,監獄という世界を通して「寓話化」して,描くことが出来ているような気がしてきます。そこのところが文学なのだろな,と思ったりします。
以下適当に写経。

「あなたは,貴族で,彼らとはちがうということが,彼らにはしゃくなんですよ。あなたに言いがかりをつけようとねらっているのが大勢いるはずです。あなたを辱めて,みくだしてやりたくてうずうずしてるんですよ。あなたはこれからまだまだ不愉快な思いをすることでしょう。ここはわたしたちにとってはおそろしく苦しいところです。いろんな点で,わたしたちは,他のだれよりも苦しい思いをせねばなりません。これに慣れるためには,ものに頓着しない冷たい心が必要です。あなたはこれから,茶や自分の食べ物のために,何度か不愉快な目にあったり,悪態をつかれたりすることでしょう。そのくせひじょうに多くの連中が,しょっちゅう,自分の食べ物を食べたり,茶を飲んだりしてるんですがねえ。やつらにはよくてもあなたには許せないのです」こういうと,彼は立ち上がって,食卓を離れていった。その数分後に,彼の言葉どおりのことが起こったのである。・・・69ページ

わたしが言いたいのは,どんな立派な人間でも習慣によって鈍化されると,野獣におとらぬまでに暴虐になれるということである。血と権力は人を酔わせる。粗暴と堕落は成長する。知と情は,ついには,甘美のもっとも異常な現象をも受け容れるようになる。暴虐者の内部の個人と社会人は永久に滅び去り,人間の尊厳への復帰と,懺悔による贖罪と復活は,ほとんど不可能となる。加えて,このような暴虐の例と,それが可能だという考えは,社会全体にも伝染的な作用をする。このような権力は誘惑的である。このような現象を平気で見ている社会は,すでにその土台が感染しているのである。・・・366ページ

ロシアの囚人はだれでも,どこにつながれていようが,春が来て,太陽が最初のにこやかな光線をなげかけると同時に,何か落ち着かない気持ちになるのである。しかし,どの囚人も逃亡を企てるわけではけっしてない。はっきりいえるのは,むずかしいせいもあり,失敗した場合の罰のこともあって,思い切って逃亡を決行するのは,せいぜい百人に一人ぐらいである。しかし,そのかわりあとの九十九人は,逃亡できたらいいだろうなあ,どこへ逃げたらいいだろう,などと空想し,その可能性をねがい,頭の中であれこれ思い描いてみるだけで,せめて心を慰めているのである。・・・418ページ

読んでいて,興味深かったのは,ウォッカ持ち込みの方法。監獄に酒類を持ち込むのは,もちろん禁止事項なのだが,それでもどういうわけか,持ち込まれる。囚人の間で取引される。その方法とは,下記のとおり。このようにして持ち込まれたウォッカを「飲む」のです。そこまでしてまで飲みたいものなのです。それが監獄生活というものなのか,それとも人間の性のひとつの象徴なのか。

獄内の酒屋の親父から前もって知らされていた運び屋が,牛の腸を持って現れる。この腸はまずよく洗った上で,水を入れ,こうしてはじめのしめりけと弾力性が失われないようにしておくと,しだいに酒を入れるのに都合のいい容器となる。腸に酒を移すと,囚人はそれを身体に巻きつけるが,むろん大事をとって,身体のもっともかくされた部分に巻きつけるのだ。・・・79ページ