本日の読書

日本的霊性 (中公クラシックス)大拙さんによる仏教解説書。およそ20年ぶりに読んでみます。同じく20年くらい昔に安吾さんの著作を読み楽しんでいたときに、その安吾つながりで仏教の解説書を読みたくなったので、当時はこの岩波文庫*1を読みました。だって、この岩波版の帯には「現代仏教学の頂点をなす著作であり、著者の到達した境地が遺憾なく示されている」などという大仰な宣伝文句が連なってました。これは殺し文句です。つい買わずにいられませんでした。だが、20年昔の頭ではかなり読みづらかったです。読むには読んだがかたっぱしから忘れてしまいました。
20年経ったいまの頭なら、だいぶ読めます。法然親鸞による「鎌倉仏教」が如何なるプロセスを通して、かつ平易なスタイル(念仏を唱えること)を獲得して、そして日本国内にあまねく広がっていたのか、このことをたいへんよく理解できます。
また、今回は「妙好人」の項が興味深く読めました。たしかこの項は、20年前に読んだときは、まったく頭に入らなかったです。浅原才市という名なんて、いま初めて知りました。石見国の在家の方です。しかも著者と同時代人です。彼が書き残した仏教的な言動を取り上げて、つぶさに解説しているという内容です。ともかく、なむあみだぶつという念仏がこの人の日常生活の中では、誰よりもフルに機能していたこと、そして精神をどれだけ豊かにしていたか、ということがよく理解できます。なんというか、古き良き日本人を感じます。定義は難しいですが、金も何にもないけど、質素に暮らすことで、それだけで十分に満たされているという感覚です。いま、このような感覚で生きておられる人って、本州には、まず居ないのではないかと思います。いるとすれば、離島に求めるしかないような気がします。どんなもんでしょう。
あと、個人的に思ったことだが、この本の第1篇でいう、「霊性」がどういう契機があって「自覚」されていくものか、という主題があるが、これは安吾さんの堕落論でいう「堕落」とリンクしているように思ったりします。しかも執筆された時期が近接しているということもあるので、やはり、同じ時代の空気を吸いながら書かれた本だということなのかもしれません。大拙さんの言う「霊性とは試練を経ることにより生じる」という文脈と、安吾さんの言う「堕落することで真実を見出す」という文脈、そしてこの二つの文脈が、時代への「メッセージ」として読み手に強く響いてくること。この辺が通底しているような気がします。後でうまく整理できたらまた書きます。いまはブログ上でおぼえがきとして記すに止めます。単なる飛躍だと言われたらそれまでです。