本日の読書

酒場の奇人たち―女性バーテンダー奮闘記 (文春文庫)「酒場の奇人たち(タイ・ウェンゼル著,文春文庫)」 ニューヨークのバーテンダーの生の本音とエピソードと苦労話盛りだくさん。夜をいろどる華やかなカクテルとは裏腹,対処しがたい酔っ払い連中を相手にせざるを得ず,ほんとうにたいへんな仕事であること,学ばされます。
琴線に触れた箇所適当にメモしてみる。他にもたくさんメモしてみたい部分があるのですが。一冊読み通してみると,この著者って,たいへん,心が細かくて,ナイーブですらある,バーテンダーでもあったのだろうなぁということが窺い知れます。そういう気質の人が,バーテンダーとして,わけのわからない無数の酔漢相手に,プロのバーテンダーとして働くとなると,どうなるかというわけで,あ,だからこそ,こういうおもしろい体験記として,著作が出来あがってしまったのでしょうか。そんな気がします。

人があつまるところなら何処でもそうだろうけれど,レストランで働くと,危険が無数にある。わたしはそれを労災だと思っている。ストーカーまがいの手に負えない酔っ払いから,日付のあやしい食物やジュース,客が持ち込むさまざまな病気は,バーテンダーやウェイトロンが対処しなければならない難題のほんのとば口に過ぎない。たとえば,ウェイターのマックスによれば,客が使ったグラスからもっとも感染しやすいのは肝炎とヘルペスだそうだ。そういえば,スタッフはたいがいグラスの中に指を入れて,四個まとめて食器洗い機に運んでいた。・・・このとき手にちょっとでも傷があれば,客のウィルスや病原菌が侵入する。その逆も有る。・・・(中略)・・・長年の最大の恐怖は,おわゆる変質者が,とんでもないことをやらかしてしまうことだった。鼻先2インチのところで,レイプしてやるとか,切り付けてやるとか,殺してやるとか脅かされたこともある。ほんとうにやられるかもしれないと思ったこともあった。そんな連中をひるませるのに,わたしはいつも手を振って追い払う。「あら,いまシェイカーを振っているのよ。あっち行きな」 自分もすこし震えながら,そう言った。

(<マリオンズ>に勤めてから)それも4年目のなかばまでのことだった。わたしは自分の心にかげりが出てきたのに気が付いた。変化はごくゆっくりだったが,雪だるま式に大きくなっていくのを見逃すことはできなかった。毎晩のごとく乱暴な浮浪者たちと渡り合わなければならないことにおおいに関係があったのではないかと思う。・・・(中略)・・・何かがゆっくり起こり始めていた。心臓の音はそれほど大きくはなかったが,動悸が異常に激しかった。家にこもりがちになり,予定を取り消した。ほどなく,閉所恐怖症のためにレストランや劇場から逃げ出すようになった。数週間もしないうちに,今度は広場恐怖症がみにくい頭をもたげだし,怖くてベッドから出られなくなった。ほとんど毎日,インターネットで取り寄せた不安症に関する本を読み,コーランを読み,はじめてのように真剣に祈った。・・・(中略)・・・頭がおかしくなっていることがわかったのは,アパートの一階に有る<キムズビデオ>へビデオを借りにいったときだった。コメディコーナーの前で動けなくなり,急に両足から力が抜け,倒れそうになってその場にうずくまってしまった。怪しまれないように,二本のビデオを抜いて隅っこにしゃがみこみ,首筋を伝わる冷や汗を感じながら,解説を読むふりをした。どうにか立ち上がると,目の前がかすんで,並んでいるビデオが生きているように震えだした。何もかもが異様に写り始めた。パニック発作を起こしたのだ!

世界貿易センターの崩壊後は,そのビルで働いて生き残った常連たちが群をなしてやってきた。<マリオンズ>の店内でも焼けたスティールやプラスティック,それに見当もつかないものの異臭がかぎとれた。にもかかわらず,数ヶ月ものあいだというものの,彼らは葬儀帰りの黒いスーツ姿で酔いつぶれるために立ち寄った。わたしはよろこんで願いをいれ,彼らが生きて逃げられたことに感激した。だが,そのうちの何人かは重い神経症を起こしていた。そんな悲嘆にくれた日々のあとに集まる場所として<マリオンズ>が選ばれたことを,わたしは誇りに思った。ある女性はこんな話をしてくれた。あの悲劇が起こる前夜,数ヶ月ぶりにセックスをして,そのせいで出勤が遅れ,さいわいにも大惨事に巻き込まれずに済んだ。「ほんとうなら,わたしはすでにオフィスにいるはずだったの」

バーテンダーの仕事をきっぱりやめてから,会う人ごとに,すぐ”古巣”が恋しくなるよ,といわれた。・・・(中略)・・・バーテンダーの仕事が自分にとってどんな意義があったかを,考えてみなくてはならない。ファッション業界での耐え難い暮らしから救われた。自分らしい創造的な人間になるための独立性を保てた。じゅうぶんな収入が得られて毎月の請求書になやまなくてもよくなり,あれほど願っていた休暇も取れた。そしてなにより,すばらしい人たちと親しくなれた。それは仕事以上のものだった。アルコールで冴えた頭と,打ち解けた雰囲気が作り出すかりそめの共同体。わたしの常連たちは支えとなってくれ,ときには愛情深く励ましてくれて,たいがいは正体無く酔いつぶれていた。彼らはわたしの拡大家族であり,知られたくない秘密に耳を傾けてくれる人だ,・・・牧師,精神科医,美容師,親しい伯母・・・と同様に,彼らとのあしだに多くの信頼が行き来した。友情は絶望と孤独の灰の中から生まれる。バーで働いていようがいまいが。ただ,酒が加わると,その痛いほどの思いは高まり,ストリップ劇場での酒のように,惜しげもなく振舞われる。わたしにとっては,安心してたがをはずせる場所だった。そう,わたしは常連たちが恋しい。