本日の読書

日本人の目玉 (ちくま学芸文庫)「日本人の目玉」(福田和也ちくま学芸文庫)偽眼をあしらった表紙の写真がちょっとドッキリ。そして目次中表示のエッセイ「三島の一,安吾のいくつか」という表題にひかれて購入。尾崎放哉から小林秀雄まで,日本の作家を,日本人が,どのような”目”で見てきたか,どのように鑑賞し,どのように受け入れてきたか,その深層心理を細かく書き出してくれてたように感じた。とくに,「放哉の道,虚子の道と道」「いつでもいく娼婦,または川端康成の散文について」ではこの切り口がぴたりとはまっていたように感じた。
ところで,この人,物事を鑑賞しながら,心によぎること,感じること,思うことを,率直な文章で書き出すのがうまい人なんだなと思う。
収録エッセイ「小林秀雄」冒頭部の,ブルースミュージシャンに言及している箇所なんかもおもしろい。

黒人音楽や,ミュージシャンに接して,しばしば味わう,即物的としか云いようがない様な,じかの手触り,ゲイトマウス・ブラウンというのは,門のように口の大きい男だし,ブラインド・レモン・ジェファーソンといえば盲に決まっている。その身もふたもない,直截な言い切りに,外では味わうことのできない,それこそ掘り出したばかりの,鶴嘴の匂いがする岩塩を嘗めるような爽快さを感じるのだ。だから,「シェイク・ユア・マネーメーカー」という詞は,普通の名詞,動詞などを集めてつくった一節なのに,他の何にも用いきれない固有名詞のように響く。そう,まさしくすぐれた黒人ミュージッシャンは,固有名詞だけで語っているようだし,その音楽全体が固有名詞のようだ。
優れたブルース・マンの楽曲に触れると,その歌詞だけではなく,ギターの音色やアンプリファイアの調整までもが,何やらきわめて直截な,直接に自分の頭脳や身体を撫で,摩り,揺すぶってどこかに連れて行くような感覚を味わう。この直接さと,固有性はきわめて緊密な関係を持っている。
だが,この「直接性」というのは如何なる性質なのだろうか。・・・

以下,まだ続いてますが,この人,よく鑑賞して身体で味わってくれてます,そういう共感がよく伝わってくる文章だし,客席に座って,ステージ上でのパフォーマンスを観て楽しみながら,心の中で思ってることを,よく代弁してくれているように思います。こんな書き方もあるんだなと驚き。