埴谷雄高さんの文章から昭和初期の清水町を想像しつつ散策せること。

下記の文章は十勝清水町という地にすこしでも接したことがある方のために書いてます。昭和初期の清水町の情景に思いを馳せるひとつのよすがになれば幸甚といったところでせうか。

1927年(昭和2年)目白中学校卒業。在学中すでに結核を病む。夏、北海道へ赴く。・・・当時結核は死ぬというふうに思われていたから、埴谷は、観念的にではなくて、現実に自分のこととして、死と向き合うことになった。絶望的な気持になった。・・・清水に滞在中の七月。芥川龍之介の自殺に衝撃を受ける。清水には本屋がなくて、その先の帯広まで行き、芥川の「或阿呆の一生」の載っている雑誌「改造」と「歯車」の出ている「文芸春秋」とをわざわざ買ってきた。
芥川の自殺は「「おれのニヒリズム」の「やけのやんぱち」をなにか純粋化したような一種の衝撃だったんだ。」(対談「二つの同時代史」)そして、このときが、文学へ行くか、左翼の政治運動へ行くかの分かれ道だったが、文学の方へ行くことになったと述べている。

上記は埴谷雄高全集別巻所載の”年譜”からの引用です。かの「死霊」であまりにも有名な作家の埴谷さんが,その17歳というたいへん感じやすい時期に,十勝の清水町に足跡を残していたことは,あまり知られていないように思われます。折りしもその前年に肺結核を発病し,その療養目的でこの清水町に一ケ月滞在*1。当時は不治である結核による自らの死への想念を余儀なくされ,そしてそれが果て無き観念的思索生活の契機になったこと。しかも,滞在中に,芥川龍之介の自決という,当時の小説好きとしては,おそらく衝撃的であろう報道にも接しておられ,そしてそれが埴谷雄高という,後年,昭和を代表するカリスマ作家の誕生の一契機になったということ。こういった一連の精神のドラマが,この清水町という十勝平野の一角にて,およそ70年前に,繰り広げられていたということ。そういう地としての清水町に,平成の現代から思いを馳せてみるのも,また乙なものなのではないかと思います。
滞在当時の清水町での思い出は埴谷さん自身が,下記に引用せる二つのエッセイで語っています。

私がプーシキンにはじめて接したのは、結核のよくなった中学卒業の年、父が健康地だと信じていた北海道の十勝平野に赴いたときであった。私がその長い汽車旅行に備えて持参したのは、「赤と黒」と「オネーギン」の二著作であったが、上下二冊になる長編の「赤と黒」に対して一冊の短い韻文小説「オネーギン」を選んだのは、それが偶然書店の棚にあっただけの理由にほかならなかった。しかも、私はそのときプーシキンについて知っていて「オネーギン」を選んだのではなく、「オネーギン」を偶然選んだことによってプーシキンを知ったのであった。
十勝平野の隅で私は年長の知人につれられて遊んだ。冷たい小川へやまべ釣りに幾度も赴いたが、その釣り好きの年長の知人が膝まで水中に漬かって糸を流しながら下流へ消えてゆくのを見送ると、私は何時も釣竿を岸辺に差し込んだまま、あお向けにひっくりかえって、持参した「オネーギン」を読み始めるのであった。私は、現在でも詩のいい読者ではないけれども、北海道の澄明な自然の中で開いたこの長詩は私の心をとらえてその詩句のところどころを暗誦したものである。ロシヤ人にとって憧憬の女性であるらしい純真なタチヤナも私のナスターシャ・フィリッポブナ好きの性向を変えてしまうにはいたらなかったけれども。(「プーシキン銅像」1966年11月)

いまでこそ東京からならちょっとお金さえ費やすことが出来れば,飛行機に乗って,わずか2時間程度で到着することが出来ますが,しかし当時は列車に乗ってたっぷりと時間をかけてたどり着くしかなかったのですね。まことに隔世の感甚だし,でございます。でも,飛行機による移動では,時間があまりにも短すぎて,あのスタンダールの分厚い著作に,骨の髄まで読み耽ることはもはや不可能でしょう。そういう意味では,まことに羨ましい思いもします。
文中の「冷たい小川」とは,おそらく清水町の市街すぐそばを流れる”ペケレベツ川”のことでありませう。

アイヌ語で”澄んだ水が流れる川”,という意,転じて”清水町”という地名の由来にもなりました。今日のペケレベツ川は,日高山脈の雪解け水をおびただしく含んでいて水量は多かったが,その水はやはり澄んでいました。おそらく埴谷さんの滞在していた頃にはもっと透明だったのだろうと思いますが。ただ,いまは,コンクリートによる護岸工事もあちこちずいぶんほどこされており,当時「オネーギン」を読みふけったであろう岸辺はもう残っていないのではないかと思われてなりません。

北海道ーーこういえば、遥か遠い大きな島とまず思うものの、吾国における戦後の航空路の年毎の発達は、高所恐怖症の私など思いもかけぬほど目ざましく、北の果ての北海道も、南の果ての沖縄も、現在の「飛行機感覚」でいえば、「すぐ近い距離」に、ともに、ある。しかも、斜めに長く延びている吾国では、寒い北海道と暑い沖縄が、同じ国内に存するので、これからの若者にとっては、そのどちらも、遠い外国旅行の前の訓練ふう小旅行の一目標となってしまうのであろう。
けれども、昭和二年夏、私が東京から北海道の清水まで、ぶっつづけに「汽車」に乗ったときは、二晩も車内ですごさねばならぬうんざりするほどの長旅行だったのである。
帯広の手前にある清水という小さな町は、段丘上の十勝平野が遠い果てまで一望に眺めおろせる狩勝峠からすぐ間近な甜菜糖工場の所在地で、私は中学四年からかかった肺結核の予後の療養を兼ねて「涼しい北海道」の知人宅まで赴いたのである。そのとき、車内の長い時間をすごすための長編として、「赤と黒」を本屋の書棚で選んだが、偶然、そのそばにあったプーシキンの「エウゲニイ・オネーギン」をを買い揃えて列車に乗ったのであった。ところが、ーー列車のなかの三等室の「堅い椅子」で過ごす時間は、「赤と黒」どころか、さらになお「カラマーゾフの兄弟」を読み通せるほどのうんざりした長さで、もしその途中に、青森から函館まで「船」に乗って見下ろす青い海、夜の燈火が高い階段ふうに上方へ向かって輝いている函館港の風景を眺める一種「ゆったりした自存の時間」が途中にはさまれていなければ、とうていその長時間を持ち切れず、途中の何処かで列車から降りてしまったであろう。
実際、一月以上の滞在後、帰るときには、札幌で降りて、東京とまったく同じふうな清潔な喫茶店で焼きりんごを注文し、高い並木のある大通りからその奥へと歩き廻ったのである。(「夜の階段ふう燈火」1989年3月)

文中の「甜菜糖工場」はいまでも健在です。

社名はまさに事業名そのまんまの”日本甜菜製糖株式会社”です。JR十勝清水駅前入り口から右方向へ徒歩で10分くらいのところに立っています。工場の建物自体は,当時のものでないだろうけれども,その敷地内をふらと散策していると,

その敷地内にはこんな建物があります。いまは”集会所”として使われているようです。いかにも明治期の北海道のようなたたずまいですね*2。おそらく当時の埴谷さんも,ふと目にしていた建物のひとつなのではないでしょうか。
ちなみにこのJR十勝清水駅周囲は,いまでは,ほとんど家屋は建て直されているようで,昭和初期当時の趣をいまに伝えてくれる建築物は,ほとんど残っていないと言っていい状態です。それでも,街路を漫然と散歩していると,まだこんなのも残っていて思わず目を引きます。

写真屋としていまだに現役のようです。これもなにかしらむかしの日本を感じますねえ。これまたおそらく埴谷さん滞在当時の雰囲気をいまに伝えてくれる数少ない建物だと思われてなりません*3
というわけで,思わず文学散歩にふけってしまった本日でした。*4

*1:念のため,地元の図書館で「清水町史」をひもといてみたのだが,昭和初期の清水町に,サナトリウムがあったという記述は無かった。したがって,この時の滞在が,公的な療養施設での滞在を目的としたものではなくて,やはり著者自身が書いているとおり,清水町の「知人宅」にての,私的な滞在だったであろうことを察することが出来そうです。

*2:札幌の時計台みたいな構えですが,屋根の上のやぐらには時計はありません

*3:ちなみのこの建物脇には小さな小屋があって,そこには石炭が山のように蓄えられてました。いまだに石炭ストーブを使用されているものと察せられます。偉大。この店の主人はただものではないようです

*4:ただ,自分は残念ながら,埴谷雄高の良き読者ではありません。「死霊」はいまだ未読です。