本日の読書

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)「個人的な体験(大江健三郎新潮文庫)」初めて読んだのは15年位まえ。したがって今回は再読です。
やはりある程度時を置いて読みなおすとずいぶん理解度が違っているからおもしろいですね。前に読んだときは,鳥(バード)*1が終始抱えている苦悩の筆致が,あまりに饒舌でついていけなくて,読んでて疲れた記憶があるが,いま読み直すと,これらがすなおにしんみりと頭の中に入ってきます。
ちなみに,この本にはささやかな思い出があります。下記の一節。

義父に会いに行くまえにまず髭を剃り,顔を洗おう! と鳥(バード)は考えた。そして鳥は床屋の看板を見つけ出すとまっすぐそこへ入っていった。初老の床屋が,ごく一般の顧客をむかえる態度で鳥を椅子にみちびいた。かれは鳥に不幸の兆候を識別していない。鳥はいま,床屋という他人の目にうつったかれ自身になりおおせることで悲しみと不安から自分を解放することができる。鳥は目をつむった。かれの頬と顎を熱くて重く消毒液の匂いのするタオルが蒸した。鳥は子供の時分,床屋を舞台にした落語を聞いた。床屋の小僧が凄まじく熱いタオルを客の顔にのせる。それはあまりに熱くて,手にのせて冷やすことなどできないから,そのまま客の顔に移したのだ。それ以来鳥は,熱いタオルで顔を覆われるたびに笑ってしまう。鳥は自分が微笑みをするのを感じた。しかしそれは行き過ぎだった。鳥は身震いして微笑を追い散らし,かれの赤んぼうの不幸について考え始めた。鳥は微笑した自分に罪の証拠を見出したのだった。(新潮文庫版49ページ)

上記は,たいへんシリアスで,苦く,葛藤にみちみちたシーンでもあるのだが,どういうわけか,自分の場合,この一節を初めて読んで以来,どういうわけか,変な癖がついてしまったのです。
すなわち,この鳥(バード)と同じように,やはり床屋で,自分の髭を剃ってもらうために,熱い蒸しタオルを顔にがばとのせてもらうときに,なぜかタオルのなかで表情を緩めてしまって,つい笑ってしまう癖がついてしまったのです。暖かいタオルに気持ちよく蒸されるおかげで緊張がほどけるせいもあるのだろうが,このようにして一度笑いが噴出してしまうと,なかなか止められないので困ったものです。
いざ,髭をそってもらわんと,当の蒸しタオルが顔の上からはがされた後も,その思い出し笑いを自ら止めることができない。がまんしようとすればするほど,なおさら笑いがこみあがってきて,たえられなくなる。顔もぴくぴくひきつる。
こうして,椅子の上のわたしが,あまりに顔をひきつらせて笑いつづけているので,床屋としても,これではあぶなくて,剃刀を頬に当てることができなくて困ってしまう。
ひどいときなんか,床屋さんに「笑わないでください! すぱっと切れますよ」と脅されたこともあるのだが,それを言われると,その唐突なる恐怖心がなおさら笑いを呼ぶから困ったものです。あげくの果てには髭剃りはとうとう断念,でも,定額料金はばっちり取られて,入り口のドアから去る羽目に陥りました。
ともかくも,床屋で蒸しタオルを顔にのせられたときに,不意に笑ってしまう癖を,わたしに植え付けたのは,ほかならぬ,この大江健三郎の小説なのです。大江さんから活字を通して,癖を伝染されたようです。
だけど,いまは,だいぶ修行を積んだので,笑いをみずから制御することができるようになりました。とにかく,床屋の椅子に座っているあいだは,自分で自分の内股の肉をむんずと強くつねりつづけるに限りますです。痛いので笑いの発生を抑えることができます。これのおかげで助かってます。
小説の本筋とはずいぶんとずれているのだが,ささやかな個人的な思ひ出ということで。

*1:すべて”バード”とルビが振られている。もちろん,鳥はこの作品の語り手であり,そして主人公である。おそらく,一人称で語られる小説でいう,”わたし”を”鳥(バード)”に置き換えて描写することで,より小説的で,客観的な語り口を得ようとしているのだと思う。