昨日読んだ

青山二郎全文集」(ちくま学術文庫)に,映画について論じたエッセイ”映画評”なるものがあった。おおよそ概略を書くと,青山二郎によると,ストコフスキーの映画出演映像は,ストコフスキー御自身が理想としている”指揮者”の姿を,これ見よがしに,スクリーンに現出せしめようという意図がありありで,しかして,その姿勢ははなはだ”自作自演的”な押し付けがましさがあって,そういうのは,好かないとのことであった。そしてそれと同じようなことは,チャップリン「ライムライト」,わが国の古川ロッパの映画にも,いえるとのことであった。
上記はおよそ昭和20年代半ばに書かれたエッセイ。リアルタイムを過ごされた人による生の証言ゆえに貴重。こんな歯に衣着せない切れ味のいい論調を読まされると,平成の現在の読者としても,そのストコフスキーの映画や,ロッパの映画とかを,自分でも観てみたいと思うから不思議です。
しかしながら,当時はその一方で青山二郎の言う「押し付けがましさ」のある映画作品等が受け入れられる土壌が,その映画が製作された当時には,あったのではなかろうか。それが当時の人間に受け入れられたあるいは拒絶された手がかりとはなにか。そしてその答えを求めてみたくなって,自分でもその原作を見たいと思うことにもなるわけだろうか。
白昼にこういうことをぼんやり考えながら,台風が過ぎ去るのを待っているわけであります。