日録

雨天。日中気温は25〜27度あたり。そういえば、今朝方、某半島国がミサイルを打ちあげてしまい、日本北半分ではアラートが鳴り響き、軽くパニックになっていたことを、朝方に寝床で見たツイッターで知る。悪い冗談だったらやめてほしいのひと言なのだが、火炎をごうごう噴いたミサイルが巨大な放物線を描いて、襟裳岬の東向こうまで飛んでいったのは事実だから仕方がないです。2700kmもはるか遠くに飛んだにも関わらず、発射から着弾までわずか14分程度。ということは、もしも列島内に着弾したとしたら、朝、枕元の携帯のアラートで呼び覚まされて、寝ぼけまなこであたふたしている間に、5分位は軽く過ぎてしまうわけだから、本当に住まいから至近距離で着弾するとしたら、逃げる時間がほとんどないですね。おそろしいことです。地下や頑丈な建物のなかに避難していてください、と言われてますが、あいにく地方住まいだとそんな都合のいい場所に地下空間はありません。自分でシェルターでも掘って備えておけということでしょうか。いや、仮にシェルターがあったとしても、それが役に立つのはたまたま自宅に居るときだけであって、日中に勤務先にいたり、自動車で移動中だったりしたら、そこでモハヤコレマデです。けっきょく運頼みで、津波てんでんこなのが、多くの人にとっても現実なのではと思います。しかし、こういうことを考えていると気分が滅入ってきますね。なので、近況のメモに切り替えます。8月ももうすぐ終わりのようで、夏の暑さも落ち着いてきたようです。例年どおり、8月のはじめ(4日〜6日)には列車に乗って熊野の方にもおでかけしてましたし、また下旬一週間(21〜28日)はフェリーに乗って秋田の方にも行ってました。こうして休みをもらって、あちこち出かけられるのも、ひとえに国内が平和なおかけです。そんなことを思いながら寝ます。おやすみなさいませ。

日録

晴天。ほんとうに書くのはごぶさたですが、ただたださぼり続けていただけであって、いたって元気です。書かない間に年度は越えてしまうし、連休は過ぎてるし、国会は相変わらず荒れていて某法案が通ってしまいました。それでも、目のまえの生活は淡々と続いていきます。
とりあえず、先日(6月5日〜6日)は高松市に出張に出てました。意外にも初めての四国上陸でしたが、お勤め目的だったので、どこにも立ち寄らず、これという感想はないです。駅前でいただいた本場のさぬきうどんはうまかったです。
そして下旬(6月26日〜27日)には、広島に出張予定が入っています。広島は土曜日曜に何度も立ち寄っていますが、お勤め目的は初めてです。
今日は、車検の見積もりと、その額面でピットに入れたので、何かと物入りです。とはいえ金で買える安全だと思えば安いものです。
来月の7月はこれという予定はないです。お勤め中心に静かに過ごす予定ですが、8月になったらここのところ恒例の熊野参りはやろうと思います。
こうして思ったことを自分なりに整理してつらつら書くのは、やっぱり気分がいいですね。それでは、夜になったらおやすみなさいませ。

日録

晴れのち小雨。18時半には切り上げて帰宅する。3月末をもってオフィスで8名もの人員が入れ替わるので、調整に少々戸惑っているこの頃です。こういうバタつく時期こそたくさん寝て、翌日に集中力を出せるようにしときたいところです。ベッドスマホはしないでささっと目をつぶるのが理想です。おやすみなさいませ。

日録

晴天なれどもなんとなくうす曇り。桜咲き始める。主に自宅まわりで過ごしつつ、福岡に出かけたときのログ起こしをする。以下のとおりです。とりあえず年度末でドタバタしていますが、こうしてオフィスでのあれこれとはまた違った次元のことを考え、整理するのは、いい気分転換にもなります。このペースで春を駆けっていきましょう。おやすみなさいませ。
<3月11日のこと>ブログのネタにしておきたいな、とは思いながらも、なんとなく忙しくて書けずにいました。まあ、それが年度末というものなのでしょう。とはいっても、いつまでもなにも書かずに忘れてしまうのももったいないので、おもしろい、と思った部分だけを、雑に書いてしまいます。
先日(3月11日)、福岡県の筑紫野市にでかけていました。目的は、杉山3代研究会大会*1をぶらりと見に行くことです。3代のうち、いちばん有名な夢久こと夢野久作さんの作品は、ほんの一時期ですが、けっこう面白がって読んでました。それでも結局三一書房の7巻全集全部読んでしまってました。ほんの一時期とは言いながらも、なかなかの熱の入れようです。
それにこの鳥取から福岡なら距離的にはそれほどのものではないし、この機会に福岡にでかけて、夢久さんの世界を共有できそうな人と言葉をかわす機会があってもいいのではないか。そういうわけで、参加を決めました。
前日夜22時に米子駅前から夜行バスに乗って、翌朝には福岡駅前バスターミナルに到着しました。午後からの大会にはまだたっぷりと時間があったので、午前中はついでの朝の散歩と言うことで、呉服町一行寺にでかけて、杉山3代のお墓にもご挨拶を済まてきました。折しも夢久さんの命日でもあったので、墓石の両サイドにはいま挿したばかりの新しいお花もあがっていました。すでに杉山家か、あるいはファンの方が捧げてくれてたのかなと思います。ちなみに自分は手ぶらでただ墓石を拝んだだけでした。
福岡駅周りをすこし巡ってから、昼まえ11時頃には、JRに乗り、二日市駅に向かいます。駅前のホテルにチェックインを済ませて、今回の会場の筑紫野市生涯学習センターに足を運びます。3階の視聴覚室が今回の会場でした。
13時、いよいよ大会のはじまりです。はじめはいわゆる任意団体には付き物の「大会」でした。選任された議長ささんが前年度の決算報告と、新年度の予算案とを説明して、みんなから拍手をしてもらってハイ!可決にもって行くとおう型どおりのものでした。それでも面白がって聞いてました。特に昨年度決算では、不知火書房さんが全国的にリリースされた会報「民を親にす」の売れ行きが好調で、ほんのわずかながら黒字決算になったようです。おめでたいことです。
14時前には上記大会がおわり、いよいよ研究会本番です。トップバッターは「基調講演」ということで、江戸川乱歩賞をとったばかりの作家佐藤究さんによる「ドグラ・マグラと人類の無意識について」というものものしい表題の講演でした。とはいっても、かの大作ドグラマグラには、いっさい言及せず、傑作短編「押絵の奇蹟」に触れながら、人類が背負ってきた「記憶のミメカタチ」の不思議さについて語る、という内容でした。
まず演台の上に江戸川乱歩賞の正賞である大乱歩の胸像を置き、佐藤さんはその胸像に見下ろされる位置に座ってマイクを握り、ご自身が作家としてのキャリアで経験してきた、不思議な記憶のミメカタチについて、エピソードを交えて語っていきました(ちなみに、乱歩の胸像を演台に置いたのは、かつて昭和のはじめに乱歩さんが、夢久さん宅に招かれたときに、応接間で、茂丸さんの胸像に見下ろされていたエピソードに由来したものだそうです)。
講演の内容は、本当に魔呵不思議な、小説的なものであり、夢久さんと乱歩さんと、そして佐藤究さんご自身とが積み重ねてきた記憶が世代をこえて複雑にリンクしあい、人と人とのご縁の不思議さを感じさせるものでした。
まず、究さんがまだ作家として駆け出しの頃、河村悟さんという詩人と知り合いになったこと。詩人は1948年生まれであり、いまでこそ詩人という肩書きなのだが、かつて60年代にはR大学の現役学生であって、全共闘闘争にも関わり、逮捕され、投獄されたすごい過去を持つ人です。
さて、詩人と言えば、かの乱歩さんも、昭和12年の講演録「夢野久作とその作品」にて、北原白秋邪宗門」を引き合いに出しながら、夢野さんの作風に、詩人としての資質を感じとり、探偵作家という既存の枠をはみ出た作家として評価し、故人を偲んでおられたそうです。
そして、ここで、ふたたび、R大学出身の詩人河村悟さんの話に戻ります。そういえば当時、このR大学で総長をされていた人物は誰かというと、なんと、乱歩のご子息平井隆太郎さんでした(ちなみに、当時、戸川安宣さんが推理小説研究会をされていたときに、顧問も務めておられました)。しかし、河村さんは闘士であり、学生なのに講義にもまったく出席せずに、全共闘闘争に入れ込み、1969年1月には、ついに逮捕され、投獄されてしまいます。学生でありながら前科がついてしまう。当然のように、退学届を大学へ提出せざるを得ない状況になってしまいます。
しかし、なぜか受理されず、不思議なことにいつまでも「休学扱い」になってしまう。いったいどうしたことだろう、と思いながら日々を過ごしていたところ、ある日、大学総長の平井隆太郎さんとキャンパスでばったりと出会ってしまう。「いろいろ大変らしいね。卒論、僕でよければ、見ようか?」と優しく声をかけてくる。落第生である自分に総長が直々に対話を求めてくる。あり得ないことが起こった。
しかし、これも必然あってのこと。平井隆太郎総長は、河村さんが全共闘で用いるアジテーションのテキストに「詩」を感じ取っていおられたというのです。詩人としての資質を評価し、大事にしたい、という意図なのか。だから、何度も提出されてくる退学届を受理せず、総長判断で休学扱いにしていたらしいのです。
ここで雑にまとめます。・・・乱歩さんが夢野さんを「詩人」として評価していたこと。・・・そしてご子息隆太郎さんが河村さんを「詩人」として評価していたこと。・・・そして、河村さんと、佐藤究さんとがお知り合いになり、ついには、探偵小説を執筆され、江戸川乱歩賞の受賞にもこぎ着けたこと。そして今日、福岡で講演をしていること。
ここには、人が世代を代わっても、どこかで無意識に受け継ぐ記憶というものがあり、それが人をつき動かしているのではなかろうか。まるでドグラ・マグラではないか。・・・という結末で〆て、この講演はおわりになりました。かなり魔呵不思議で、そこが小説家ならではの講演でした。じっさいにこれはもともと「ノンフィクション」として執筆したものの、事情により掲載が見送られた未発表作品のネタだそうです。そのうち、ふさわしい雑誌に正式に発表される日を楽しみにしています。おもしろい講演ありがとうございました。
その後の、各担当からの研究発表もいろいろ興味深いものばかりでしたが、とりあえず端折ってかいつまんで書きます。
浦辺さんの講演では、福岡市箱崎狛犬のお堂の話が記憶に残りました。大正時代に路面電車を整備するときに、まわりを掘り返したら、犬の首がでてきたそうです。まさに「犬神博士」のエピソードの由来としてのお堂です。また福岡に来るときに立ち寄ってみたいポイントが増えました。
つづいて4代目杉山満丸さんの報告は、ここ1年間の杉山一族にまつわるイベントやらを紹介するもの。とくに昨年は、国書刊行会で全集が発刊されたりで、毎月のように夢久にまつわるイベントが開催されていて、けっこうにぎやかな1年間だったようです。
台湾から来られた黄さんの発表は「冗談に殺す」と、志賀直哉の作品の手法の類似する箇所について指摘されたもので、ずいぶんと読みが深いよなと思います。
また東京から来られた鈴木さんの発表は、「笑う唖女」を取り扱ったものであり、前近代の象徴である唖女が、近代科学の象徴である医学生を殺してしまうという、物語としての構造について解き明かしてくれるものでした。これもまた読みが深くてたいしたものだと思いました。
中島さんの発表は、夢久さんの年譜を詳細にまとめたもので、今回の発表は、亡くなられる直前の約3年間に絞ったものでした。中央探偵文壇でようやく原稿が売れるようになり、作家専業として決意を固めた時期です。福岡からでてきたばかりでほとんど新人同然な環境でありながら、古くから付き合ってきた大下宇陀児さんとのご縁で、けっこう快調に売文生活をされていたことが、よくわかる内容でした。ただ、原稿依頼を断ることなく引き受け続けてしまったため、かなり忙しくて、苦しんでもおられたようです。当時、頭痛が激しいため、ミグレニンを飲みながら執筆されていた一文が日記にあることも併せて紹介されていました。もうすこし休み休みしながら執筆されていたら、あんなあっさり早死にしなくても済んだのかもしれないな、と思ったりもしました。
以上、1日目、2日目の発表とがごっちゃになっていますが、とりあえず、自分の記憶に強く焼き付いたのは以上の発表です(とはいえ、すべての発表において、自分なりにノートもとってます)。
一連の発表がおわったあと、夕方から会場を居酒屋「吉丁」に移して懇親会になりました。だいたい20名位あつまって、今日発表した内容や、夢久の作品を読んだ思い出話とかいろいろ明け暮れました。びっくりしたのは、地元福岡よりも、東京や、名古屋や、奈良といった、遠方からの参加者がものすごく目立ったことです。それだけ杉山家への関心は、全国的なものなのだなと感心したりしました。
ただ黙って、座席で研究発表を聴いていただけでしたが、総じて、楽しい会でした。懇親会では初めて潜り込んだ自分にもいろいろ親しく接していただき、感謝の気持ちでいっぱいです。また、来年も時間が取れるようでしたらおじゃましたいと思います。福岡楽しいです。ありがとうございました。

日録

曇天ふたたび風吹きすさぶ一日。伝票整理作業に手こずり、21時過ぎまで費やして終了。その後、強風に吹かれながら帰宅する。ところで3月に一度福岡に遊びに行く予定を立ててます。往復は深夜バスによるコスト圧縮でチャレンジします。バスは乗り心地はアレですが、深夜のうちに移動してしまえる分、現地滞在時間がたくさんとれるのもメリットだなと思います。要領よくやっていきましょう。おやすみなさいませ。

日録

曇天ときどき晴れ。ひきつづき風強い一日。朝方、小雪も舞うこともあったりで、急に寒くなりました。オフィスの方は、19時ころに作業をひととおり〆て帰宅です。年度末ということで、いろいろ拘束される時間も増えそうだけど、段取り良く作業を進めて、早めに帰宅できる日々にしていきたいこのごろです。
<2月18日のこと>翌日は小平の有名なモダンガール淺井カヨさん宅を訪問してました。たまたま18日午後に、蓄音機鑑賞会&小平文化住宅見学会が同宅にて企画されていることを、ツイッターで知り、まだ1名空きがあったので、メールを送って訪問予約してしまいました。ナイスなタイミングで企画を立てていただけてありがたいです。
厳密にはこの家、淺井さん宅ではなくて、ご主人の音楽研究家郡さん宅なのですが、だとしても、現実、モガとしての実践生活の意気込みが満々にみなぎっている建物でございまして、まあ、半分以上は、淺井さんの意図に基づくものと考えても、不思議ではなさそうです。
一橋学園駅から歩いて10分ほど住宅街の中をあるいていると、明らかに雰囲気が異なる構えの住宅が見えてきました。

予定の待ち合わせ時刻まであと10分くらい。ここにきてにわかに緊張してきました。恐る恐る門についているボタンを押す。「ブー!」とブザー音。まもなく玄関引き戸のネジ鍵をがちゃがちゃと回す音が聞こえてきました。その時引き戸がガラリとあいた。あ!カヨさんだ!桃色のワンピースと、釣り鐘型の帽子。テレビや動画で見たのとそっくり同じ風貌の方がでてきて、もう感動してしまいました。わたしのようなほとんど初めてな訪問客相手でも、すごい気さくに接してくれて、あっという間にリラックスしてきました。
はじめは「蓄音機鑑賞会」ということで、ご主人郡さんによるレコード鑑賞会でした。郡さん、スリーピースのスーツのうち、ジャケットを脱いでベストだけ羽織っているいでたちで、終始にこやか、すごいおしゃれな紳士様でした。
こじんまりとした洋室に通されて、郡さんの解説を挟みながら戦前のSPレコードに耳を傾けます。曲目はマーチ「双頭の鷲の旗の下に」、フルトヴェングラー指揮「アイネクライネナハトムジーク」、江戸家猫八「12か月」、「大東亜戦史22面」、奥田良三歌唱「命かけてただ一度」、藤山一郎青い山脈」といったところ。これらをビクトローラの蓄音機で流して、みんなで耳を傾けてました。やはり、蓄音機は、音が生々しいですね。出された紅茶をすすりながら、まったりと、いいムードで音楽を楽しみました。

蓄音機のつぎは、淺井さんによる文化住宅ご案内でした。まず、この住宅のコンセプトは「大正時代の和洋折衷の文化住宅を、現代の技術でどこまで再現できるか」というもの。とくに「災害への強さ」を得るには現代の技術で建てるのは当然だとしても、しかし、むかしの家の「風情」を出すためには、「利便性」はだいぶ犠牲になったようです。たしかに、玄関や窓の鍵はネジ鍵でしばらく回してないと開けられないし、部屋と部屋の間にはつまづきやすい段差があるし、風呂場はつるつるのタイル敷きで、濡れた足で歩くとすべって転倒する可能性もあります。そして和室は薄っ暗いです。いろいろ不便なところもあるようです。しかし、むかしの風情を出すためには、どうしてもこれでないと困る、ということで、工務店の職人さんを相当悩ませたみたいです。2日書けて自宅の紙模型をこしらえて、それを職人さんに見せて、建物のイメージを理解してもらったりしていたそうです。
だけど、そこまでこだわって建てただけあって、見るものすべてがその時代のムードたっぷりで、見てて驚きと感動の連発でした。玄関には昭和8年製の黒電話があって、もちろん現役で通話して使用されています。和室の火鉢は50年前のもので、実家に眠っていたものを磨きに磨いて、茶道具店から取り寄せた灰を入れて復活させたもの。洋室のストーブはアラジン。台所は、研ぎ出しの流し台で、コンロは鋳物で、マッチでいちいち点火するタイプ。冷蔵庫は電気を使わず、氷屋で買ってきた氷塊を上段に入れて使用するもので、なんと田島式冷蔵庫といって、いまも特注生産されている品とのこと。

そして2階に上がると、そこはモダンガール研究の蔵書が、床から天井にまで届くような巨大な本棚の中にぎっしりと詰まっていて、すごい壮観でした。
ちなみにこの2階には出窓がありますが、これは戦前の医師にして作家だった高田義一郎氏旧宅から材料をもらいうけて、ここで組み直して復活させたものだそうです。もとの家は取り壊されても、ここで装いを新たにしてふたたび時間が刻まれていくわわけです。
いつかこの2階で「バー”モガ”」をやりたい構想もあるそうなので、いつか機会があったらそのときに立ち寄ってみたいものだなと思ったりもしました。

それにしても、生の淺井さん、すべてがモダンガールで、そして、エンターテイナーでもありますね。いっしょに時間を共有していて、本当に楽しい方でした。またいつか何かのイベントでばったりとお会い出来るようだったら、ご挨拶したいものだと思います。というわけで、夕方17時ころには小平文化住宅を引き揚げて、ふたたび都内に戻りました。
19時ころには新宿の居酒屋で軽くお腹を満たして、それでもまだ勢いが残っていたので、ゴールデン街に立ち寄り、中上さんゆかりの居酒屋に立ち寄って、焼酎を飲んだりしていました。そういうことをしているうちにヤバイくらいに酔っ払ってきまして、だらだらと過ごしているうちに、いつのまにか上野の宿にもどって無事に就寝できていたようです。
結果として、なかなかディープな都内散策になりました。またうまい具合に偶然が重なってきたら、また都内にでかけてみたいと思います。というわけで、おやすみなさいませ。

日録

強風吹きすさび、ぬるい雨もよこなぐりに降る1日。積もってた雪もとけるとける。山陰も春一番な一日でした。
<2月17日のこと>先週末のことですが、ひさびさに東京都内にでていました。そして、17日は例年どおり安吾忌にでかけていました。鳥取まで引越していながら東京のローカルなイベントにわざわざ顔を出すなんていささか狂気の沙汰ですが、・・・やはり、居心地がいいから行く、このひとことに尽きるのかなと思います。
飯田橋駅前の「トリノ」というレストラン地下フロアで、18時半から開始でした。参加人数は(今年は金曜日ということでちょっと期待してたのですが)、常連さんの欠席がけっこう目立ってて、けっきょく35名位だったかなと思います。金曜日、意外にいろいろしがらみがあったりしてて、かえって忙しい方も多いのかもしれませんね。
予定時刻すこし遅れて、シネ・ウィンド齋藤代表の献杯でスタート。はじめのスピーチは綱男さんで、それからいろいろなゲストさんへとスピーチのバトンをわたしながら進行していく、という例年どおりの展開でした。

そして予定どおり20時半にはトリノでの1次会を〆て、いったん解散して、二次会はすぐとなりの和民の掘り炬燵の個室に集うという、これまた例年どおりの黄金パターンでした。
そういえば二次会での綱男さんによるお話のネタでは、綱男さんご自身がお若いころ、安岡章太郎さんに叱られたエピソードのことが面白かったです。エピソードの中身は、ただ単純に「バカヤロウ!」とご本人に叱られただけのことです。ただ、安岡章太郎さんというと、なんとなくオチコボレなオーラが漂う自伝作品が多いですよね。そういうタイプの人にガツンと叱られるのは、正直、なんかモヤモヤしたものがありますよね。一言で行くと、説得力が無い。その辺の「違和感」がよく伝わってきて、それがエピソードとして、興味深いものがありました。
なんかいろいろ盃を重ねているうちに、けっきょく11時近くまで和民に居たような気がします。いいムードでした。また来年も休みがとれるようでしたら、立ち寄りたいと思います。
それと、文スト文アルをきっかけとして、安吾さんほか文豪の面白さに覚醒された方もご参加されてましたのも気になりました。個人的には、こういう新しいパターンでのご参加者を、もっともっと巻き込んでいければ、面白いよなぁと思います。安吾忌を文スト文アルファンの「聖地」として位置づけてもらうムードに流れていけば、案外そういう展開もあり得るのではないか。半分冗談で半分本気でそんな妄想をしています(妄想だけで、具体的になにをどうすればいいのかまでは思いつかないですよ)。
この夜は、2次会で引き上げて、0時ころには東京ドーム近くの投宿先で一夜を平穏に過ごしました。
つぎは翌日18日の出来事を書きます。おやすみなさいませ。